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『原子力資料情報室通信』第340号(2002.9.30)より

連載・低線量放射線の影響をめぐって(その1)

被曝していない細胞にも影響が伝わるバイスタンダー効果

 ここ数年、低線量放射線被曝の影響についての議論がさかんだ。これは放射線防護の基準をゆるめて、放射性廃棄物の処分や放射能で汚染された原子力施設の除染の経費などをいかに削減するかを画策する動きと連動している。他方、これまでの放射線影響の概念をくつがえすような新しい現象も明らかになってきた。本誌338号の崎山比早子さんによる「被曝の影響は孫の代までも」でも、被曝がもたらす継世代影響について具体的、包括的に伝えてもらった。これらの動きをめぐっての議論、そしてこれまでの放射線防護体系はどのようにつくられ、なにが問題なのかを検証してみたい。
しきい値はあるのか?  ないのか?
 いまの放射線防護の基準は、このレベル以下だったら安全という放射線量はなく、被曝線量に応じてがんや白血病が発生する確率が増えるという、しきい値のない直線反応関係(LNT: Linear-Nonthreshold Dose-Response)を前提としている。しかし、その考え方にもとづき設定された基準値も、原子力発電所を運転しつづけるためにはこれくらいの被曝はがまんしなければならないという量にほかならない。
 コスト削減のため防護基準をゆるめようとする勢力は「いまのLNT仮説にもとづいた基準はあまりにも保守的すぎ、低線量域では、健康リスクの過大評価となっている」「低線量被曝にはなんの影響もなく、むしろ健康にいい効果もある」などと、現在の防護体系を攻撃する。
 アメリカ放射線防護測定審議会(NRCP)の科学委員会は、この直線しきい値なし線量反応モデルの妥当性を検討するため、これまでに報告されている文献データを再評価し、科学的視点からまとめるという作業を行なった。1999年10月にドラフトをインターネットで公開し、広く意見を求め、2001年6月にはNRCPレポートNo.136として発刊した。
 報告書は「低線量被曝にともなう多くの健康リスクに対して、しきい値のない直線線量反応関係を前提とすることを否定するだけの十分な証拠は存在しない」と結論した。さらに、「多くの科学的データがしきい値のない直線仮説を支持しているが、ごく少ない線量からの健康影響の確率は小さいために、仮説の妥当性を証明することも否定することもできないであろう」という見解を示している。
 つまり現在のところ、しきい値があるともないともいえないというのだ。しかし、このところ分子生物学的手法での解析、また加速器と顕微鏡を組み合わせたマイクロビーム照射装置などの開発により、さまざまな低線量放射線の影響があらたに確認されている。

これまでの概念をくつがえすバイスタンダー効果

 これまで一貫して低線量被曝の危険性を訴えてきたジョン・ゴフマンは、「たった1個あるいは数個程度の放射線の飛跡でも、人間にがんを起こす」と主張してきた。このゴフマンの主張をはっきり証明し、またいままでの放射線影響の概念をくつがえすような現象がつぎつぎと明らかになってきている。
 米国コロンビア大学のHei,T.K.らのグループは顕微鏡で位置合わせをしたうえで、ねらいを定めた細胞に望みの数のアルファ粒子を当てることができるマイクロビーム装置を使って、ハムスター卵巣細胞CHO-K1の中にヒト1番染色体を入れた細胞核にアルファ粒子を照射した。1個当たっただけで20%の細胞は死に、生き残った細胞にも変異が起こることを初めて証明した(Proceeding National Academy of Science,USA,94,3765-3770,1996)。
 同グループは同じように細胞質にもアルファ粒子を照射し、細胞が変異することを明らかにした(Proceeding National Academy of Science,USA,96,4959-4964,1999)。細胞質に放射線が当たって死ぬ細胞は少ないので放射線の影響は変異として残り、細胞核に当たるよりもっと危険であるとも言える。
 これまでは細胞の中に標的を想定して、ここに放射線という「弾丸」が命中することで細胞が死にいたるという考え方がされてきた。しかし、この「標的理論」はくつがえされ、照射された細胞の近くにある照射されていない細胞にも被曝の情報が伝わることが明らかになったのだ。これらの現象は「バイスタンダー(Bystander)効果」と総称されるようになった。どのようにしてこんな現象が起こるのかというメカニズムや、なにを媒体としているのかはまだ解明されていない。
安全量は存在しない
 この効果は、アルファ線に限らずエックス線などでも起こり、線量効果(細胞あたりのヒットの数と生物に対する影響の対応関係)も認められている。また、放射線照射した細胞培養液で処理した場合、照射されていない細胞の細胞死が増すという報告(Mothersill C.ら,Int J Radiat Biol.72,597-606,1997)も出てきて、細胞以外の標的もバイスタンダー効果が起きるひきがねとなる可能性も示された。
 これら一連の結果は、放射線で遺伝子が直接傷つけられなくても、細胞に突然変異や発がんが起きる可能性があることを明らかにした。細胞と個体とは直接的には結びつかないにしても、線量が低いからがんにはならないなどとは、まったく言えないことを示している。
 これまで、原子力発電所や再処理工場周辺でがんや白血病が発生したとき、「こんなに低い被曝線量ではがんや白血病は起こり得ない」と放射線被曝との因果関係を否定され続けてきたが、どんなに線量は低くてもがんや白血病を発生する可能性があるのだ。

日本での議論
独自の主張を持っているのか?

 原子力安全委員会は、JCO事故の反省と2001年の省庁再編によって独立性と機能を高めることを求められた。そして「行政庁とは独立し、国民の立場に立って、科学的・客観的知見をよりどころとした適切な総合判断を行ない、所要の政策の企画や、行政庁の行なう安全規制業務のダブルチェックを行なう役割を果たす」という認識のもとに、新体制がしかれた。放射線障害防止基本専門部会の低線量放射線影響分科会(主査:丹羽太貫京都大学放射線生物研究センター教授)はこれらを背景に2001年9月にスタートした。この分科会の目的は、低線量放射線リスクの科学的基盤を明らかにした報告書をまとめることであるが、かなり率直な議論が展開されている。
 バイスタンダー効果については、松原純子安全委員会委員長代理から「たとえ細胞レベルでこのような現象が起きても、個体の放射線に対する反応には、障害があっても必ずそれを修復する作用があるはずだ。発がんまでのプロセスにおいて働くさまざまな防御機構が現実には介在する」という強い主張がたびたびなされた。それに対し丹羽主査は「修復作用はあるだろうが、防護機構についての確かなデータはまだない」とし、現時点での科学的知見にもとづいた報告書をまとめたいと強調した。
 低線量放射線影響研究体制のありかたをめぐる議論では、これまでの研究体制に対する批判と、専門の科学者としての自嘲とも深い反省とも受け取れる、つぎのような発言が出た。
 「日本には広島・長崎の原爆被爆生存者の疫学調査の解析があり、重要な役割を果たしてきたのに、リスク評価においてはなんの役割も果たしていない」
 「すべての説明責任を「ICRP(国際放射線防護委員会)がこう言っている」ということですませてしまっている。日本は独自の主張を持っているのか?」
 「これまで原子力開発側の要望に則してきてしまっているが、ほんとうに中立的な日本版BEIR委員会またはNRPBのような機関が必要だ」
 「日本では放射線生物学をやっていると、それはまっとうな科学者ではないというような感覚すらある。大学院で放射線生物学をやっても就職先が見つからない。これが現実だ」
 「放射線生物学をやるということに胸を張る人がだんだん少なくなっている」
 「社会のニーズを喚起して、研究者として拠って立つところを構築しなければならない」
 こうした発言は、実態をどうにかしなければならないとする決意表明のようにも受け取れるが、まさに科学者としての姿勢が問われていると思う。

ホルミシス効果を強調したかたよった議論

 もうひとつ低線量放射線分科会で、強く印象に残った委員の発言がある。「かつて『アルファ粒子1個でも突然変異を起こす』という研究にもとづく報告をしたところ、原子力安全研究協会からクレームがついた」というのだ。
 低線量の生体影響の研究でも、低線量被曝はむしろ健康にいいんだという「放射線ホルミシス」のような研究は電力会社などからもてはやされ、新聞や雑誌などでも特集が組まれ大々的に宣伝されてきた。それに対し、危険性が高いことを示す研究に対しては、研究報告することにも圧力がかけられることもあるという実態が垣間見えた。
 9月25日、電力中央研究所低線量放射線研究センターの主催で、「低線量生物影響研究と放射線防護の接点を求めて」をテーマとする国際シンポジウムが開かれた。ICRP第1委員会委員長のロジャー・コックス氏、チョークリバー研究所(カナダ)のロナルド・ミッチェル氏、大阪大学医学部の野村大成氏、丹羽太貫氏、松原純子氏、長崎大学の渡邊正己氏、電力中央研究所の酒井一夫氏らが講演をした。
 その後の電力中央研究所名誉研究顧問の田ノ岡宏氏が座長となり行なわれた総合討論は「低線量放射線は生体に対しプラスかマイナスか?」、クイズと称して「よい影響、悪い影響、どっちが多い?」を問うことに終始したひどいものだった。真剣に研究に取り組んでいる科学者からは「そういう質問には答えにくい。確かに応答はあるけれど、すべての場合に防護作用が働くと錯覚しまうことは危険だ」、「基本的にはわからない。免疫機能は高まっても、なぜそうなるかが究明されなくてはならない」などの発言があった。各講演ではさまざまな問題提起がなされた。しかし、座長の田ノ岡氏はそれらの内容を踏まえることなく、放射線ホルミシス効果を支持する姿勢を前面に押し出すだけで、まじめに研究に取り組んでいる科学者に対してはとても失礼な態度だったと思う。
 先に述べた低線量放射線影響分科会では、これまでに放射線ホルミシス効果などがあまりにも強調されすぎてきたことへの反省の上に立った議論だった。現象として見つけただけではだめで、その機構についてちゃんと解明しなければ確かなことは言えないはずだ。
そして、バイスタンダー効果などを考えると、より安全側に立たなければならないことは明らかだ。
 放射線のリスクやその評価の問題は、専門外の人や一般市民にとってわかりにくい。専門家はわかりやすく解説し伝えるという努力をもっとしてもらいたい。
 また、市民にとっても非常に重要な問題なので、情報は市民に積極的に公開し、市民もまじえた議論の枠組みを作ることがぜひ必要だと思う。


放射線影響の安全評価を行なっている機関
 ・ICRP (International Commission on Radiological Protection)
   国際放射線防護委員会
 ・UNSCEAR (United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation)
   国連放射線影響科学委員会
 ・BEIR (Biological Effects of Ionizing Radiation)
   電離放射線の生物学的影響に関する米国科学アカデミー委員会
 ・RERF (Radiation Effects Research Foundation)
   放射線影響研究所(日本)
 ・NCRP (National Council on Radiation Protection and Measurement)
   アメリカ放射線防護測定審議会
 ・NRPB (National Radiological Protection Board)
   国立放射線防護委員会(英国)

(渡辺美紀子・スタッフ)

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