刑事裁判から見たJCO臨界事故
−判決を前に
2003年2月28日
※以下は、2003年3月3日に予定されている判決を理解する一助となるよう、判決前の時点での情報をもとに記述したものです。
水戸地裁で3月3日、臨界事故の刑事責任をめぐり、JCOとその社員6人を被告として水戸地裁で行なわれてきた刑事裁判での判決が言い渡される予定となっている。被告らが2000年11月1日に起訴されたあと、01年4月23日の第1回公判以降、約20回の公判と現場検証が行なわれ、02年9月2日の検察側論告求刑、10月21日の弁護側最終弁論がすでに終えられている。
そしてJCOに罰金100万円、越島被告に禁固4年と罰金50万円、加藤被告に禁固3年6カ月、小川被告に禁固3年、渡辺被告に禁固3年、竹村被告に禁固3年、横川被告に禁固2年6カ月という求刑が行なわれている。
3月3日、実際にいかなる判決が下されるかは未知数であるが、裁判を経て現時点で得られている情報は以下のようなものである。もとより検察・被告双方の立場から構成された法廷でのやりとりを傍聴した限りでは情報は完全でなく、裁判の全貌を伝える字数もないが、詳しくは、報告書(オンライン公開中)所収「JCO刑事裁判でこれまでに判明した事実」(伊東良徳)などを参照されたい。
裁判で明らかになった最も重大な問題のひとつは、事故現場となったJCO転換試験棟の加工事業許可の安全審査(1983-84年)の事務方を、JCOへの発注者である動燃から科技庁への出向者である安全審査官が担当し、しかも一次審査と二次審査と設工認(設計及び工事の方法の認可)の全ての事務方をほぼ一人で担当して、利害関係者の排除や審査の独立性がまったく蝕まれていたことである。この出向者は数年間科技庁に出向してJCOの安全審査を担当したあと、再び動燃に復帰している。
ウラン粉末精製工程しか審査せず溶液製造工程とそのための設備の目的外転用について実質的に無審査のまま通したこと、中濃縮ウランを取り扱うにもかかわらず低濃縮ウラン用の審査指針を流用することによって臨界事故の想定を不必要としたことなど、この安全審査には多くの問題点が指摘されていた。
そのうえに利害関係者の排除が行なわれていなかったばかりか、動燃からの出向者がJCOの当初の意図以上の申請内容(濃縮度20〜50%のウランの取り扱い)を追加するなどの誘導を行なっていたこと、科技庁と安全委とのダブルチェックと称しつつ、科技庁の事務方と安全委の事務方が同一人物であることによって実質上シングルチェックになっていたこと、そして事務方の官僚が審査過程のほとんどを左右しており、委員たちは太鼓判を押すだけであったことなど、この安全審査に事故の引き金が存在したことがいっそう確かになったのである。
1983年に下された動燃の高速原型炉「もんじゅ」の設置許可に対してこの1月27日、安全審査の過誤欠落によって「無効」の判決が下されたが、動燃の高速実験炉「常陽」の設計変更に伴うJCO転換試験棟の改造を審査したこの安全審査と許可(1984年)も、審査の手続き・内容・人事などあらゆる側面においてその妥当性はきわめて疑わしいものである。この問題は裁判で明らかになったのであって、安全委の事故調によってではない。これは安全委・科技庁・動燃という、事故に責任のある関係者によって組織された事故調の限界を示している。
クロスブレンドやバケツ使用、貯塔使用などの逸脱工程も、臨界管理に反してウラン溶液を集中させる動燃の混合均一化要求に発して、納期をめぐる動燃の要求によって後押しされる形で開発され、動燃とJCOの両者が臨界管理を軽視するなかで、臨界事故への防御が次々と失われていったことがより明らかとなった。ウラン溶液製造の必要自体はアメリカの核不拡散政策に伴うウラン・プルトニウム混合脱硝化から生じたものであったが、それを動燃がJCOに発注したことによってJCOから動燃への溶液輸送(粉末輸送に比して困難を伴う)が必要となり、しかも動燃が輸送に伴う試料分析の時間と手間を節約しようとしたことから、大量のウラン溶液の混合均一化がJCOに課せられたのである。ただしそもそも動燃がなぜウラン溶液製造をJCOに外注するようになったのかは不透明なまま残された。そしてJCOは臨界安全を改善する設備改造などを行なわないまま動燃への不定期な製品納入に応じ続けたほか、科技庁や安全委は杜撰な安全審査以降その状況を放置したため臨界事故を防止できなかったのである。
事故調の過程で、JCOが「常陽第6次製造が開始される直前の92年年末から93年の1月にかけて、製品の形態がUO2粉末から溶液に急遽変更される等の仕様変更や不純物混入等のトラブルで混乱したにもかかわらず、93年1月から急いで操業を開始する必要が生じた」という資料を提出したが(事故調資料8−8)、事故調に委員として入っていた核燃機構理事がそれを否定し、JCOは書き換えた資料を提出するという経緯があった。JCOの当初の主張がその後の刑事裁判でほぼ裏付けられたことも、核燃機構理事の否定するままそれ以上この問題を検討しなかった安全委事故調の限界を示している。
しかし裁判の大きな欠点は、上記安全審査担当官が出廷したことを除けば、JCOで逸脱工程が形成される個々の過程に関与した動燃や科技庁の当事者たちが証人として証言台に立つことはなかったことである。具体的には、JCOの転換試験棟が使用許可(1979年)や加工許可(1984年)を得た当時の原子力安全委員やその部会(核燃料安全専門審査会、同第八部会)の委員、動燃から科技庁への出向者であった安全審査官(上記)以外の科技庁の担当者と動燃側の担当者、JCOへの混合均一化要求やその後の製品受注に関与した動燃側の担当者、科技庁の運転管理専門官、その他直接の当事者の所属部署幹部をふくむ動燃と科技庁と安全委の多くのレベルの関係者である。しかし彼らは証人として呼ばれるべきにも関わらず呼ばれなかった。これは事故を招いた要因を温存することにつながりうる。
検察が起訴したのは法人JCOとその社員にとどまったほか、起訴事実のなかには事故によってもたらされた周辺住民の被害などは含まれていなかった。この裁判が総体としてのJCO事故のすべてを視野に入れたものでなかったことはいうまでもない。
またJCO側もまず起訴事実を認めたうえで情状酌量を訴える方針を一貫して維持し、事故の被害を過小評価しようとしたほか、臨界管理に関して誰もが無知で臨界の危険は念頭にないまま事故に至ったなどの不自然な主張を展開し、沈殿槽投入に至る具体的な経緯と理由も完全には明かさないままであった。語られたのは作業を急ぐ必要があった(実際には作業は予定よりも前倒しで進んでいた)、貯塔が不便だった(貯塔が逸脱工程とはいえ作業性と臨界安全にすぐれていたことは裁判自体において度々証言された)など定かでない間接要因が多かった。また「科技庁の巡視が近かったから貯塔を避けた」という証言が真実であれば、抜き打ちでない科技庁の巡視が事故を招いたことになるが、行政はこの情報を黙殺している。裁判が被告の姿勢を保身に傾かせ、事故の真相の解明を不可能にした点も看過できない。
このように事故調が取り残し、「第二回地方原子力安全委員会」における原子力安全委員会とJCO臨界事故総合評価会議との討論や、JCO臨界事故総合評価会議の質問状に対する原子力安全委員会の回答などによっても不明なままであった多くの疑問が、裁判を経てもなお残っているのである。これは事故調も裁判も、事故調査を体系的・網羅的に行なう場ではなかったことによる。とはいえ裁判で結果的に安全委事故調が指摘した以外の要因も出たことで、「責められるべきは作業者の逸脱行為である」として原因をもっぱら作業員に帰した事故調査委員会報告が、この裁判の過程全体によって否定されたことは指摘せねばならない。刑事裁判という制約があっても、安全委員会のような問題の矮小化は許されないことが明らかになった。この意味で、この裁判の結論がどうであっても、これまでの原子力安全行政の責任は免れないといえる。
JCO臨界事故総合評価会議が行なった第二次生活影響調査では「(事故が)今後、二度とくりかえすことのないようにしてほしい」との声が寄せられた。JCOは事故後に加工事業許可を取り消されたが、操業再開への意思を持ち続けているといわれる。また安全委員会は形式的には独立性の向上を掲げつつ、現在も、核燃機構や原子力推進官庁などとの交流人事を伴う人事慣行を改めていない。何重もの癒着が見られたJCO転換試験棟の安全審査の実態から導かれる教訓を活かそうとしていないと考えざるを得ない。
また安全審査のもうひとつの欠陥として、機器の基本的な設計を審査するのみで、作業員がその機器を用いていかなる行動をとるかという作業性の問題を審査しないことの問題がJCO事故を通じて浮上している。安全委は事故後に「作業性への配慮」を謳ってはいるが、この作業性への配慮不足などJCO事故を招いた構造を今後いかに実質的に解消していくか、確固たる基準は示されていないばかりか、多くの原子力裁判における姿勢に典型的に示される通り、安全審査は限られた範囲だけ審査すればよいという姿勢を変えていない。
この裁判の終了が、JCOはもとより、動燃(核燃料サイクル開発機構)、安全委、ひいては原子力推進政策の関係者全体にとって、単なる「みそぎ」と事故の幕引きを意味するものとなってはならない。事故の真相に関する聖域なき解明と総合的な対策がなければ、真の再発防止は可能とならないからである。
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