『はんげんぱつ新聞』の歩みから――日本の反原発運動史を振り返る 西尾漠

『はんげんぱつ新聞』の歩みから――日本の反原発運動史を振り返る 西尾漠
(反原発運動全国連絡会編『脱原発、年輪は冴えていま』七つ森書館刊より)

『はんげんぱつ新聞』の頃

『はんげんぱつ新聞』は1978年3月に、全国各地の人々が集まって検討するための叩き台として第0号を刊行、創刊は同年5月である。反原発の闘いが、各地域地域の住民運動から全国的な連携を求め始めたのを契機に生まれたと言ってよい。原発推進の動きが、電力会社が主体のものから国が前面に出てのそれへと変わっていくことに対応しての変化という側面もある。立地自治体に建設促進の“買収金”を公布する電源三法の公布(1974年6月)から、当時の通産省と原子力安全委員会が主催する公聴会である第一次・第二次の公開ヒアリング(1978年末から79年初めにかけてそれぞれ実施を決定)へと、「国策」を強調し、「国が相手ではどのみち勝てない」とあきらめを誘う流れがつくられようとするのに抗して、『はんげんぱつ新聞』は生まれた。
爾来、「国策」におしつぶされない闘いを、各地の住民運動、市民運動、労働者運動はつづけてきている。そんななかで、「国策」の化けの皮はすっかり剥がれてきた。高レベル放射性廃棄物の処分をめぐって、電力会社の連合体である電気事業連合会が「国のエネルギー政策で原子力をやっているのだから、廃棄物も国が全責任を持ってほしい」と国に迫り(1998年1月)、福島第一原発事故の損害賠償をめぐって「原子力は国策で遂行されてきたこと等から、東京電力だけでなく国も賠償責任を果たすべき」と泣きつく(2011年5月)姿が、そのことをよく示していよう。
「国策民営」と名づけられた日本独自の原発推進体制にひびを入れたのは、ねばり強く闘われてきた反原発・脱原発運動の成果のひとつである。
それでも、誰も「国策」の誤りの責任をとろうとしないがゆえに、誤った「国策」が維持されてきた。今こそ政府と電力会社の双方の責任を厳しく問い、偽りの「国策」を転換させる必要がある。いや、結論を急ぐことはないだろう。『はんげんぱつ新聞』創刊当時に話を戻して、そこからスタートしたい。第0号で、三重県の熊野原発設置反対連絡協議会の森弘幸さんが当時の状況をまとめているので、まず引用しよう。なお、以下の引用での肩書きは、いずれも当時のものとする。また、故人も少なくないが、その点も不問としたい。

たたかいの武器として「はんげんぱつ新聞」を

熊野原発設置反対連絡協議会 森弘幸

他の公害反対運動と同様、反原発のたたかいも「地域エゴイズム」とののしられることがあるほどに地域にしがみつく運動として出発した。そこに住みたいから、住めなくさせようとするものは絶対に許せないのである。だから、ほかのところはいざ知らず、私の町に、村にだけは原発を持ってきてほしくない、ということにもなるのである。そのため、他人の力を借りずに、自分の力で守り通すのだというわけで、外部からのいかなる助っ人も歓迎しないということが多かった。しかし、たたかううちに、原発反対は地域での運動としては一定の成果をおさめながらも、決定力に欠けることを、みんな気にしだした。私の住む熊野も水際作戦を成功させていると言われる。たしかに、原発の上陸を封じているのであるが、しょっちゅう水際で守りをかためているのも疲れる話である。完全に敵にあきらめさせる方法はないものかと考えるのも当然のことであった。
そのためには、敵の手のうちも知りたいし、船を出して、こちらからも攻めてみたい。敵の中枢をたたかなければ決着はつかないかもしれない。仲間も必要だ。こんなわけで、運動は、いつまでも地域にすっこもりっぱなしではいられなくなった。1975年8月の反原発京都集会開催に微力が捧げられたのもこのためである。
(第0号、1978年3月)

『はんげんぱつ新聞』は、この京都集会を出発点に創刊されることになった。その経緯は、『草の根通信』の1998年9月号に書いた拙文から採るのが、若干の自己紹介も兼ねて、最も手っ取り早そうだ。

「発行までの経緯を述べようとすると、75年8月の第一回反原発全国集会(於京都市)にさかのぼる。このとき、各地の地元紙の記事を集め、お互いに別の地域の情報を知り合えるようにする通信がつくれないだろうか、との話が持ち上がったそうだ(筆者自身は参加していない)。それぞれの地元では大きく報道される動きでも、別の地域ではベタ記事にすらならない、という報道の現実があったからである。
その切り抜き通信の考えがさらにふくらんで、地元紙の記事に頼るのでなしに各地の人が自ら伝えたいことを書いて自分たちの新聞をつくろう、と話がふくらんだ。しかし新聞づくりにはそれなりの体制が要る……。
と考えているうちに、勤めていた広告制作会社がツブれて「著述業」という名の失業状態にあった筆者の姿が目にとまったものか、久米三四郎さん、高木仁三郎さんのお二人に呼び出されて、編集専従者となることを求められた。発行責任者は久米さん、編集責任者は高木さんという頼りがいのある提案に否も応もなく、二つ返事でOKして、いっきょに構想が具体化する。
デザイナーの及部克人さんにレイアウトをお願いし、0号をつくって、全国各地の人に集まってもらい、B4判4ページで月刊の新聞の創刊を決めた。発行主体として反原発運動全国連絡会が結成され、久米さんをふくむ十数名の経営委員会が、発行の責任を負うこととする。紙代がコゲつけば経営委員が連帯責任で分担支出する(実際にそんなこともあった)など、実に厳しい覚悟の委員会である。連絡会の代表には、宮城県の女川原発設置反対三町期成同盟会の阿部宗悦さんが選ばれた」。

創刊号で阿部さんは、「発刊にあたって」こう述べている。

発刊にあたって

反原発運動全国連絡会代表 阿部宗悦

茨城県東海村に我が国初めての原子力発電実験炉が建設されて以来、政府はこれを既成事実として、原子力平和利用の三原則である『自主、民主、公開』の原則を踏みにじり、安全性を無視し、自治体を抱き込み、電力資本、国、自治体が一体となって強引に原子力発電の建設を推し進めようとしてきました。
原発予定地の私たち住民にとって、原発の本質的な危険性をあいまいにして原発建設を許すことは、自殺行為です。国の有無をいわせぬ強引なやり方に対する怒りと、そして原発に関する学習を深めれば深めるほど、私たちは原発の白紙撤回を叫ばずにはいられません。
現在、各地の原発で原子炉中枢部のひび割れ事故、放射能もれ、労働者の被曝死、被曝者の増大等、予想を超えた危険性が国民の前に露呈してきました。が、これも十数年に亘る根強い反原発闘争によって暴露されたものであり、今や、反原発闘争は海や農地を守る闘いから人類の生存をかけた闘いとして、漁民、農民、労働者、消費者等、広範な闘いが構築されつつあります。
しかし、これまで私たちの運動は、報道分野において分断されていました。私たちはこの事実を認識し、全国各地の反原発を闘う人々が一堂に会してそれぞれの闘いを学び合い、闘いを連帯から結合へと飛躍、発展させることを願って、ここに『反原発新聞』を発刊することになりました。
私たちは皆さんと共に、反原発闘争の武器としての『反原発新聞』発展に努力していきたいと思います。
(第1号、1978年5月)

ここでも強調された「報道分野において分断され」ることによる壁は、いまではインターネットで、全国どころか世界各地のニュースまで即座に知ることも、リアルタイムで情報を交換し合うことも簡単にできるようになり、いとも軽やかに乗り越えられた。その意味では、『はんげんぱつ新聞』創刊時の目的には変化が生じている。しかも月刊では、新聞というより「旧聞」だ。とはいえ、そのスローさが、新たな強みになっているのかもしれない。ある人は、「遅れて情報量の小さな新聞が届くから、かえって頭の整理になる」と言ってくれた。『はんげんぱつ新聞』では、反原発・脱原発の運動を進めるための情報や論理を伝えるとともに、運動をする人たちの感情や思いをも伝える。そこでも「スロー」さが、ひとりよがりな訴えとなることを防いでくれているようだ。
閑話休題。本題に戻って、『はんげんぱつ新聞』の第1号は1978年4月25日、四国電力・伊方原発一号機の設置許可取り消しを求めた裁判の第一審判決を大きく取り上げている。原告=住民側の敗訴である。と、ここで再度の寄り道を。
前述の第0号は『はんげんぱつ新聞』で、いまもそうだが、実は創刊に際しては「ひらがなでは気分が出ない」として『反原発新聞』に改められた。それをまた、「漢字の反原発ではいかにも硬い」として、1993年10月号から『はんげんぱつ新聞』に変えたのである。第0号当時の命名は及部さんだが、15年ほど時代を先取りしていたことになるのだろうか。最近では『脱原発新聞』にと、よく提案されるが、第400号のコラム「風車」で筆者は次のように答えている。

「本紙は『はんげんぱつ新聞』だが、反原発より脱原発に紙名を変えたらどうかとの声を聞く。400号は、よい機会だったかもしれないのだが、正直なところ、3・11後の慌ただしさで、それどころではなかったのが実情だ。
紙名の変更は、けっこう難しい。1993年10月の187号で『反原発新聞』から『はんげんぱつ新聞』に変更しているのだが、第三種郵便物の変更がなかなか認可されなかった。漢字を仮名に変えるだけなのに、別のものではないか、発行目的が変わったのではないか、としつこく聞かれた。第三種をやめたい郵政当局の意図があったのか、単に担当者がイヤな奴だったのかはわからないものの、ともかくやっかいだったという記憶がある」。

成果をあげる地域の闘い

再び、今度こそ本題に戻ろう。第1号は敗訴の記事だったが、第2号では1978年5月14日、山口県豊北町の町長選で反原発の町長が誕生したニュースとなった。この第1号、第2号の対照的な記事は、原発推進が単に電力会社の個別の計画ではなく、司法をも押さえ込んだ国家主導の形で行なわれるようになってきたこと、そして、それに対して個別の地点での闘いでは反対運動が強い力をもっていることを象徴していると言ってよい。
先の森さんの引用の中に「原発反対は地域での運動としては一定の成果をおさめながらも」という記述があった。当時すでに14基の原発が運転に入ってはいたが、それらはすべて1970年以前に、つまり原発の何たるかがよくわからないうちに計画されたものであり、同一地点に複数基がつくられているケースが多い。いっぽう、70年代以降に計画がたてられた地点では、強い反対運動で軒並み計画は立ち往生していた。70年以前からの計画地でも、長いところは十数年にわたって「水際作戦を成功させて」きたのである。
そのことは、2011年のいま、よりはっきりと見えてきている。原発の数は54基になってしまった(そのうち福島第一原発の1~4号機については廃炉が確定している)が、13道県17地点に集中しており、70年以前に最初の一基の計画が浮上した地点のみである。
第5号で、後に第二組合の中国電力労働組合に吸収される電産中国地方本部の桝谷暹さんは、強調する。

反原発闘争は勝利的に発展している

電産中国地方本部 桝谷暹

反原発闘争は勝利的に発展している――私は、そのことをここで確認したいのです。全国の皆さんと共に。
豊北や芦浜や、あるいは阿南や熊野や浜坂やという、現に原発を建てさせていないところだけのことではない。柏崎にしろ女川にしろ、現在きびしいところにあるわけですが、しかしこれまで10年以上にわたって建設をはばんできた。建設計画をズタズタにしてきたということだけでも、勝利してきたと言っていいと思います。しかも困難な局面のなかで強固に闘いを前進させている。そうした闘いがあったからこそまた、豊北なりの勝利があったのではないでしょうか。
なるほどいま政府・電力独占資本の側は、原子力基本法や原子炉等規制法を整備し、一方では伊方判決にみられるように司法をもまきこみ、私たち電産中国への処分攻撃、柏崎住民への刑事弾圧というかたちで、これまで以上に必死になって原発開発をすすめています。
しかし、「エネルギー危機」だ「不況対策」だと言ったところで、原発開発がそうした問題の解決になるどころか、人類の生存をもおびやかすものであることは、このかんの闘いの進展によって、いよいよ明らかにされています。そのことがさらに地元住民を中心とした闘争と、労働者の闘いをいっそう強く結びつけ、年を追ってますます反原発闘争を強力なものにしてきているのです。
こうして、全国各地どこでも、原発は予定通りにすすめられていないのです。私たちの関わっている山口県豊北町の闘いでは、計画段階で我々の側が圧倒するという画期的な勝利をしました。推進側は挫折寸前で、電力の経営陣の中においてさえ矛盾が激化しはじめているところにまで、私たちは追いこんでいるのです。
だからこそ、推進側は強権的にならざるを得ないのだと思います。それも当然です。そのことこそ私たちの反原発闘争が勝利的に飛躍的に発展していることの別のあらわれなのではないでしょうか。私たちはこの点自信をもっていい。豊北の闘いも、これから本当にきびしくなってくると覚悟しています。自信を持って、闘いを質的に高めていこうと考えています。
(第5号、1978年9月)

第0号から第400号に至る30年余の間に計画を阻止した地点は、北海道浜益、岩手県久慈、田野畑、田老、新潟県巻、石川県珠洲、三重県芦浜、海山、熊野、和歌山県那智勝浦、古座、日置川、日高、京都府久美浜、鳥取県青谷、山口県田万川、萩、豊北、徳島県阿南、高知県窪川、大分県蒲江、宮崎県串間などなどと枚挙に暇がない。第0号以前にも福井県小浜や兵庫県香住、浜坂などの計画を阻止している。
建設されてしまった地点にしても、「建設計画をズタズタにしてきた」ことは、電力会社にとって最適なタイミングをずらしてしまったことを意味する。電力需要の急成長期に建てられるはずだった大出力で小回りのきかない原発が、低迷期に完成したのではたまらない。けっきょく電力会社は、表向きの推進姿勢とは裏腹に、原発建設に消極的になっていく。
それは、先に引用した森さんの説くように「地域にしがみつく運動」の成果である。住民の論理のいくつかを、ここで紹介しておこう。

郷土を悪魔のすみかにはさせない

熊野市井内浦原発設置反対同盟 向井比徳

原発は原爆から、農薬は毒ガスからヒントを得て作り出されたものである。共に大量殺人の目的で作られ、同じ発想から考え出された。
イペリット・ガスは浸透殺虫剤となり、窒息性・マヒ性等の毒ガスから種々の農薬を作り、農産物の収穫は増大したが、その反面、自然の調和を乱し、益虫・益鳥をも殺し、沢山の農民が事故で死んでいる。また、農産物を食べる一般消費者は危険にさらされ、脅かされながら生活しているのが現状である。
これと同じことが熊野市で起きようとしている。
原発は、私どもの枕元に雷管のついたダイナマイトを置くようなものだ。これから先石油資源がなくなるから原発は必要である、少しくらい危険があってもやるんだ、と言われても承服することはできない。
御用学者の言うようにまったく安全なら、電力最大消費地の近くに作ったら良いと思う。政府や電力会社が安心して休んでくださいと言っても安眠できないのは理の当然である。自分の生命や子孫の安全は自分たちの手で守らなければならない。これが民主主義の根本理念であると私は思う。
金をもらって企業の宣伝にまどわされ、気候温暖、風光明媚、空気のきれいな我が郷土・熊野を悪魔(原発)のすみかにすることは許せない。
4、5日前、「ルーツ」のテレビを視て感じたが、一度失った自由を取り戻すのに七代もかかっている。原発で汚さされた土地を取り戻すにはこれ以上の歳月がかかるだろう。大地や海はそこにすむ人間の宝であり、城であり、生活の場である。これを安易に売り渡してはならない。健康で安心して住める土地があることは人生最上の幸福であると私は思う。
“点”の反対運動から横の連絡のある“面”の反対運動に進めるため『反原発新聞』が発行されることは誠に時宜を得たもので心から祝福いたしたい。
(第1号、1978年5月)

12年目を迎えた伊方闘争 伊方からの年賀状

伊方支局 広野房一

全国の皆さん、明けまして御目出度う御座います。今年もいっそう頑張って運動を続けます。よろしくお願い致します。
さて、愛媛県伊方の闘いは既に11年を経過、私たちにとっては長い厳しい闘いですが、年賀状がわりの報告として、こたつの中でおミカンでも食べながら読んでいただければ幸いです。

原発建設の条件はあったのか

四国のどこかに原発を建設しようとしていた四国電力が、どこにも設置を認めるところがなく遂に伊方町の町見地区の九町の九町越を候補地に定めたのは、昭和43(1968)年ころである。そのとき、伊方町内の権力者たちは、最高責任者たる町長をはじめ議員など、原発とは如何なるものか、何ゆえ辺地を選ぶのかについて正しい学習もなく、ただ安全宣言に迷っていたことは否定できない。推進論者は、放射能の放出はゼロだと大宣伝をしていた。
原子力発電所を設置する上で絶対必要な条件は何か。それは土地の取得、漁業権の買収、水の確保、堅牢な地盤、そして地域内の全住民の同意である。それが伊方の場合はどうか。

(1)土地のだまし取り
四国電力は、120名ほどの土地主の私有地買収計画を自治体を介して行なった。推進派の有力地主と共に全住民には内密に、検討の期間も与えず売買契約を結んだ。完全に買収することは不可能と見るや、不服ならばいつでも解約できるとだまして、契約書に印鑑を押させた仲介人もいた。その後、反対地主の内十名余の者が契約は破棄するとして四国電力社に申し入れた。電力会社からは、契約は有効で破棄通告に応ずることならないと回答あり、やむなく反対地主は、昭和45(1970)年12月、裁判闘争に踏みきった。以来、昭和53(78)年5月まで懸命の努力にもかかわらず、最終的には断行仮処分という名のもとで、土地主は電力会社に土地を取り上げられ、土地裁判敗訴となったのである。
土地の争いについては、伊方住民は決して忘れてはならない事件がある。それは昭和48(73)年4月20日のこと、当地区では大地主の反対住民の奥さんで当時72歳の方が土地を電力に売り渡す契約書に印を押し、結果、それを苦に遂に右の日に自殺されたのである。こんな悲しい出来事が許されるはずはない。

(2)強引な漁業権売渡し
伊方町に於ける原子炉設置に関係の深い漁民の代表機関は、町見漁業協同組合である。同漁協では、原子力発電所設置の可否については再三総会を開いた結果、反対決議がなされた。決意は固く、幹部役員がなんと言っても賛成に同意はしない、どこまでも闘うとして特別反対署名まで実行、反対勝利は確実であった。
ところが、権力者たちは、内密工作をして最後の総会に於いて遂に混乱の中、賛成多数を宣言し、漁業権売り渡しを強行したのである。

(3)水の確保問題
いずこの原子力発電所に於ても、大量の水を絶対に必要とする。伊方原子力発電所地点に最初から水があると何人が考えていたのか。関係地区民(隣町である保内町)の知らない間に、伊方原発用水は保内町から頂きますと国に対する申請書に四国電力は書いていたのである。これを知った保内町住民が怒るのは当然。保内町の水を守る会は、時の会長矢野浜吉氏を先頭に保内町の水量などの数字を詳しく町に提出、他に送る余水なしと断乎、送水阻止に踏みきった結果、国ならびに四国電力は、保内町からの水を断念し、海水を淡水化して用いることとなったのである。

(4)住民は同意していない
四国電力は全住民の同意を得ていない。全住民の同意なきときは設置を断念すると当時伊方町に来た電力会社を代表する者は公言していた。私たちは、今日に至るも全住民が同意しているとは決して言えないと反論する。
全住民に理解を求める機会を、いつ電力会社や町の権力者は与えたか。この件に関しては、当時の役場職員、そして地区の区長らが、まず公聴会を開き、住民の理解の上で事業を進めてはどうかと責任者に進言すると、お前たちは黙っておれ、いま公開すると建設が駄目になる、と言って聞き入れてくれなかったという。愛媛県知事に於ては、今日に至るも、反対住民とは対話しないといって一度も私たちと面談しない。
国そして四国電力が何と弁明されようと、住民はすべての生命財産を県知事、町の権力者たちに委してはおけないのであることを承知して頂きたいのである。

国を相手の裁判闘争

昭和48(1973)年8月27日、総員33名の住民は、伊方発電所の原子炉設置許可取消し請求を松山地方裁判所に提訴した。何ゆえ裁判闘争にまで発展しなければならないのか。私たちは闘争を開始して以来、彼ら推進派や電力会社、国のあまりにも住民を無視した進め方をただ座して見ているわけにゆかなかった。我々住民は、決して横車を押すものでなく、住民として当然の権利を法廷で証をたてたいためである。全国の住民は我々の法廷闘争を見守ってこられたに違いない。開廷回数35回に及び、昭和52(77)年9月29日の結審の日まで、弁護団ほかの諸先生は、本裁判に原告住民と共に全力をあげ、全国の支援者に守られながら完全に遂行された。それは実に万民のための救援の証として真剣勝負をしたことに外ならないと思うのである。
結審後7ヵ月、昭和53(78)年4月25日、伊方1号炉裁判判決の日は来た。長期間にわたる法廷論争の内容に於て、国側に一歩も負けない実証を行なった我々住民は、勝利を信じていた。当日午前10時、裁判長は直ちに原告住民敗訴を告げ、閉廷。この判決に対し、関心ある全国の良識者たちは、一様にこの判決はまさに国側証言の追認だと論評を出している。ただ一つ国側の言っていた証言に原告住民に原告適格なしと証言していたものを裁判官は原告適格ありとした点だけが了解できると断じているのである。
何れにしても原告住民はじめ反対住民の正に「辛酸入佳境」はこの日から始まる。私たち原発反対原告住民は、直ちに高松高等裁判所に判決を不服として同年4月30日に控訴し、今日に至っている。
地域反対住民33名の者は引き続き伊方原発二号炉の設置についても当然取り消しの裁判を松山地方裁判所に提起した。昭和53(78)年6月9日、弁護団抜き、原告自らの力で裁判をと一歩も引けない態勢で日々奮闘中である。

運動の原点を忘れず

推進論者は、原発は安全だ、今日までに世界に於て事故は一度も起きていない、といってきた。だが、その発言はまったく通用しなくなったのである。昭和54(79)年3月28日のアメリカのスリーマイルアイランド原子力発電所の大事故をどう見るか。相変わらず日本の権力者は、原発を推進しようとする意見を持っている者が一部にある。
伊方町でも原発安全宣伝の説明会が一部の者を集めて開催されたが、その席上、案内された推進側と判断される者たちは、全然質問をしない。私たち反対住民に対しては案内がなかったが、我々も会場に入れろと要求、遂に反対住民も会場に入ることができた。反対住民の質問に国や四国電力の代表者、説明者も正しい回答を出さなかったのである。
私たち住民は、実に十ヵ年を超える闘争を続け、多くの正しからざることを追及してきた。如何なる時にも住民として当然の行為をしたという確信を持って行動し、運動の原点を忘れず今日に及んでいる。
四国電力は昨今、四国のどこかに第三の原子の火をともす地点を発表すると噂されているが、断じて許してはならない。私たち住民代表は、昭和54(79)年11月16日、伊方町をはじめ保内町、瀬戸町、三崎町に行き、最高責任者に面談を求め、今後は絶対に原発建設に応じないよう強く要求・申し入れをした。私たち住民は、悔いなき闘争のため、一人は万人のため万人は一人のため、人類生存の永遠の礎を築き上げなければ、子孫のために申し訳ないのである。それが全住民の願いである。
(第21号、1980年1月)

男たちを引っぱった「婦人の会」の活動
原発拒否決議を堅持さす

熊野市遊木町
遊木郷土を守る婦人の会 浜地和子

私は結婚して10年、女の子2人、夫は漁師です。美しい自然の環境と、おいしい魚に恵まれた遊木(ゆき)の町が好きで、一生の生活の場として選びました。しかし10年を経た今、その郷土は、井内浦に原発を誘致するという大きな問題をかかえて、揺れに揺れています。10年前から起こっていたことですが、またまた芽ぶき始めたのです。このままではいけないと、私たちは、7月末に「遊木郷土を守る婦人の会」を発足させました。はじめは近所同士の呼びかけで、30〜50人くらいで始めた会も、今や200人余りにふくれあがっています。
私たちの最初の活動は、8月に市川定夫さんをお招きして、放射能と遺伝学のお話を聞くことでした。私たちは、こうして少しずつ、知識を得ることから始めました。8月15日からは、お盆休みを利用して、汗をふきふき一軒一軒、他の町ではすでに始まっていた署名運動に歩きました。隣町の二木島にも行きました。それが、私たちの予想を越える1万5,000余の原発拒否決議堅持を求める請願となって、9月の市議会に提出されたのです。

1,700人余の集会に感激
9月議会で原発問題が審議されようとする前日の9月21日、拒否決議堅持を求める市民大集会に参加しましたが、この時は大変でした。バスで行こうか、汽車にしようか、と思案しました。私たちの盛り上がりによって、漁の最盛期にもかかわらず、男の人たちが動き始めてくれました。あの人がバス一台、この人がバス一台と、あちこちからカンパの波です。私たちも夜を徹して、たすきとか、はちまきとか、一所懸命につくりました。集会には遊木挙げての参加となり、大漁旗がひるがえりました。1,700人余の集会に、私は大感激でした。一人一人の力が一つの輪となり、一つの大きな力となる偉大さです。その力が一緒に歩き、叫び、行動を共にした帰りのバスのなかで、私たちは新たな確信を得ました。

火種を残した9月市議会
翌22日の議会で、原発問題は、私にとって意外な結果となりました。市民の目の届かない特別委委員会で審議されるというのです。傍聴席は一瞬、騒然となりました。26日の議会最終日まで、不安な一時でした。26日、私たちの請願は採択され、安堵したものの、一方では熊野市農協や商工会議所などから出された「調査研究機関設置」という陳情・請願は、否決されずに継続審議の結果となり、予想はしていたものの、私たちに暗い不安の火種を残したのです。私たちの生活の一部とさえ信じていた農協の裏切り。陳情を取り下げてもらおうとしても、組合長は、知らぬ存ぜぬの一点張りです。そういう団体に対して私たちができる抵抗は、貯金をおろしたり不買運動をするくらいですが、会員に呼びかけ、実行中です。

盛り上がりの背景
9月に入っての毎日は、朝早くから、市議会傍聴へ、農協へと、夫や子供を置きざりに、食事もろくにせず、私の目も一時はギョロギョロ。夫から「俺は毎日梅干しで食事や」と言われたこともあります。「すまない」——そう思いながら、今は協力的な夫に感謝しながら、結局は私たちのため、子供たちのためと、つくづく思うのです。
また一方では、私たち「婦人の会」に対し、「騒がないほうが良い。上の人にまかせておけば良いのだ」という、世間の中傷もありました。しかし私は、そうは思いません。熊野市に住んでいる者として、市を守り、私たちの郷土を守りたい、子孫を守りたいと、目覚めなければと思います。そういう一人一人の自覚が、私たちの拒否決議を採択させ、「遊木婦人の会」の盛り上がりとなったのです。
私は今、この会が短期間にこれだけの活動をし、盛り上がったことは成功だと思っています。しかし、安心は許されません。まだまだ先は長いのです。熊野市民一人一人が、日本中、世界中の一人一人が、原発の恐ろしさを知り、私たちは自らにして犯罪をおかすような行動は、絶対に阻止しなければなりません。私たち「遊木婦人の会」は、これからも、私たち女としてできる活動を行い、会をより充実したものにするべく、コツコツと歩いていきたいと思います。
(第32号、1980年12月)

「まったく安全なら、電力最大消費地の近くに」とは、誰もが言う。原発立地の差別性を、住民たちは誰もが感じ取っているのだ。反対運動を支えているのは、大地や海を「安易に売り渡してはならない」、「正しからざること」を許さない闘いこそ「住民として当然の行為」であるとして、その「行為をしたという確信」である。「自らにして犯罪をおかすような行動は、絶対に阻止しなければ」ならないのである。
住民の論理のまとめとして、女川の阿部さんの説くところを引こう。

人として生きるため原発を断じて許さず

女川原発反対同盟 女川原発差止訴訟原告団 阿部宗悦

1930年から戦後1950年ころまでの女川(宮城県女川町)の海は、見事なまでに美しく、魚・貝・藻も豊かであった。私たちの幼いころは、よく浜や磯で遊び、小魚や小カニをただ獲るだけでなく、遊びたわむれたものである。こうして、私たち、漁村の子どもたちは、海を中心とした自然の営みに触れ、成長してきたのである。しかし、残念なことに、現在の女川湾をみれば、海は濁り、魚は減り、あたかも死の海と化している。
私は、このような現実を打破するためには、自然の生態系の活性化、自然の循環機能の図復をはかることが大事であると考える。浜、磯、浅海などの環境を保全することもさることながら、まず森林、その養分を運ぶ河川、そして海というように、それぞれの役割を果たし、それが連携していく環境を整えることが必要であると考えている。
しかしながら、戦後の開発は、山林を切り削り、川をせき止め、浜や磯を埋め立ててきた。その上、原子力開発による放射能汚染が、自然環境の破壊に拍車をかけている。これに対し、本来、住民ひとりひとりの健康、幸福を追い求むべきはずの行政、議会は、利潤を追求する者と利害を共にし、”ふるさと創生”とか、”村おこし”とか”地球にやさしいエネルギー”とか、口当たりのよいきれいごとを並べ、リゾート開発、ゴルフ場開発、原発建設に走っている始末である。
過般、女川町商工会が3号炉増設促進の決議をした。さらに、これを受けた議会の推進派による発議という形で議会においても9月28日、賛成多数で増設促進が決議された。このような動きには、住民の不安、反対の意思は、まったく反映されていない。ただ、1号炉の誘致以来、原発のおこぼれにしがみついてきた一部の受益者と、長期の展望を持たず、目先の利益に目が眩み理想を投げ捨てた行政、議会の姿があるばかりである。
私は、3号炉の増設はもとより、1号炉、2号炉も許すわけにはいかない。リゾート開発、ゴルフ場開発にも反対である。人が自然の恩恵を忘れ利潤にのみ生きるとしたら、それは、”ヒト”ではあっても”人”ではない。私は、人として生きるため、断じて原発を許さない。そして原発をはじめとするあらゆる闘いにおいて、農・林・漁業者、労働者、消費者、市民の結合が重要になっている時と考える。
(第177号 1992年12月)

そうした信念が「一人一人の自覚」を促し、自分たちのことは自分たちで決めることのできる運動をつくりだせれば、「勝利的に発展」させることができるのだ。

連携する地域――国を相手として

地域の運動が、森さん流に言えば「地域にすっこもりっぱなしではいられなくなった」。電源三法交付金の交付(1974年施行)など原発推進が国家主導の形で行なわれるようになってきたことからは必然的に、運動の側も全国的な連携をいやおうなく強めざるをえなかったのだ。
1975年に第1回の反原発全国集会が開かれたのもそのためだが、これを一気に加速したのは『反原発新聞』の創刊からちょうど一年後の、米スリーマイル島原発の大事故(1979年3月28日)だろう。4月5日、伊方原発反対八西連絡協議会の呼びかけで全国各地から科学技術庁(現・文部科学省)、通商産業省(現・経済産業省)につめかけた100人余りの人々は、第13号が伝えるように通産省内の会議室に泊り込んで共同の抗議を行なった。阿部さん流に言うなら「連帯から結合へ」である。

すべての原発の運転・建設・計画の即時停止を!
ハリスバーグをくり返さないために
全国反原発運動抗議団 夜を徹して通産省に要求

構成=編集部N

原子力発電は安全なりの神話は、見事完全に崩れ去った。それは、3月28日、米国スリーマイル島における大事故が証明したのである。
見よ、彼らの頭上に火の手はあがった。実証されたこの現実を、聖なる神の裁きを受ける日近しと私は考える。これに対応して、期を逃すことなく行動するは、当然であろう。(伊方支局 広野房一)
4月5日、愛媛の伊方原発反対八西連絡協議会からの呼びかけにこたえて、反原発運動全国連絡会に集まる全国各地の住民闘争の代表が、通産省におしかけた。ところが通産省は、100人を越す人々を資源エネルギー庁のある旧館ロビーに誘導したあげくに、代表の方5,6人とお会いしたい、といつもの決まり文句。しかも相手は計画課の係長とか。
「わたしらは原発を止めろ言うとるんです。止めることのできる通産大臣が会わんといけんでしょう」と強く要求し、ぼんやりと待ってもいられないと、ロビーに座り込んでの抗議集会がはじめられた。この日の共同行動を呼びかけた伊方から経過報告とあいさつ。続いて川内(鹿児島)、玄海(佐賀)、田万川(山口)、敦賀・美浜・大飯・高浜(福井)、熊野(三重)、太地・古座(和歌山)、能登(石川)、浜岡(静岡)、柏崎・巻(新潟)、東海(茨城)、女川(宮城)各原発設置地や電産中国の代表がつぎつぎと立って、怒りをぶつけ、力強い決意表明を行なう。遅れて島根や奄美の仲間も駆けつけてきた。
求めることはただ一つ。既設の原発の撤去と、建設・計画中の原発の白紙撤回だ。
これまで浜岡3号炉増設反対を闘ってきましたが、今度の事故でそれどころではなくなりました。スローガンは「浜岡1、2号炉即時停止」しかありません。事故は「地元」の概念も変えてしまいました。もう地元も外もないのですから、ともに原発閉鎖までがんばります。(浜岡支局 K)
通産省側は、ぐずぐずと同じことを繰り返し言ってくるのみ。抗議集会は、なお続く。高齢者もふくめて、4月とはいえ冷たいコンクリートの床に座りこんだままだ。
「伊方原発の完全撤去を求める要求書」が読み上げられ、伊方訴訟弁護団の要求書が続く。新潟大原発研、阪大原発阻止委、さらに東京の諸団体。
われわれは、今回の重大事故は、技術的・工学的にみて、また政治的意味において、必然的だったと考えている。米軍は昨年8月以降のイラン革命の高揚とOPECの石油値上げ攻勢など、エネルギー・石油危機の先鋭化に対し、原発の稼働率アップで対抗せんとしていた。ここから、強引な運転と重大事故が引き起こされたのである。この事情は日本でも同じだ。安全委、電事連、通産相の安全宣言は、動揺を隠しきれない推進派・自治体に向けられている。攻撃の時は今だ。大衆的な力で、原発の即時停止を勝ちとろう。(阪大原発阻止委員会)
3時過ぎ、「通産大臣は会えないと原子力発電課長が言っている」との職員の言葉に「直接課長の口から聞こう」と、4階会議室に移動した。通産大臣はなぜ会えないか。鎌田原子力発電課長らが時によりさまざまに言うのを要約すれば、通産大臣江崎真澄は、党務についているが「行方不明」であり、「皆さんがこられるとは知らない」が、「発電課長が代わって話を聞くように指示した」という(のちにわかったところでは「党務」とは東京都知事選の応援だった。)
そんな支離滅裂の言いわけをした後は、鎌田課長ら4人、時折「そろそろ時間ですので」と開き直って帰ろうとするほか何ひとつとして口を開かない。諄々と道理を説くにも、涙ながらに訴えるのにも耳を貸そうとせず、怒号にも狸寝入りで答える。大飯原発の技術的脆弱性に関する20項目もの具体的な指摘にも黙殺しか帰ってこなかった。
8時近くなって、6時から霞ヶ関の全日通会館で開かれていた反原子力東京連絡会議の集会参加者が、ガードマンの阻止線を破って交渉に加わってきた。鎌田課長らは住民に体当たりして挑発、200人余の怒りの壁におし返される。
そうしたなかで、11時前、小浜市の僧侶中島さんの提唱で、20分間、抗議の沈黙が行なわれた。さまざまな想いで、静かに目を閉じる。この時まで、怒りのあまりについ口をついてでた乱暴なもの言いや人を差別する表現が、この沈黙を境にして消えていった。
が、鎌田課長らにとってはそれも単なる休憩時間、とうとう翌朝までダンマリを通した。そして6日午前7時20分になって、「大臣秘書官と連絡を取る」と約束して会議室を出たまま戻らなかった。
「こんな奴らに俺たちの生命と生活を握られているのか」通産省の官僚との交渉のなかで、僕は怒りと悲しみで、どうしようもなく体が震えてくるのだった。そこには、電力会社とユ着して、何が何でも原発を推進しようとする国家の姿があった。奴らは、話合いにすら応じようとしなかったのだ。それは、人間の手には扱えない原発を、金と権力で過疎地に押しつけ、地域共同体をメチャメチャにしていった奴らの姿勢そのものだった。(島大「公」害研 三沢通博)
8時過ぎ、しびれをきらした抗議の100人は大臣室に向かったが、新館の扉は閉鎖されている。玄関前で抗議集会を開き、各地での闘いの継続を誓い合い、固く握手。
思えば苦闘10ヵ年の歳月、まさに辛酸入佳境の昨今となったことを感ずる。
原発を止めさせる目的達成はできませんでしたが、同士の心が団結して行動でき得たことが今後の運動にプラスになったと確信いたします。(伊方支局 広野房一)

抗議文

昨日から本日にかけて、原子力発電の責任官庁である通産省が、われわれ全国の反原発運動の代表に対し示した驚くべき背信行為の数々は、原発推進に際し各地の住民に加えられた数えきれぬ背信行為と根を一にするものである。しかし、この2日間に示された数々の行為は原発推進勢力が、当面する事態の急変に直面して、いかに動揺と恐怖を深めているかを示す何よりの証拠である。
われわれは、推進派とは対照的に、ますます確信に充ちている。われわれは、今回の裏切り行為へのわれわれの最大の返礼として、原子力発電を永遠に葬るための各地の闘いを、いっそう精力的にすすめることを誓う。
1979年4月6日 全国反原発運動通産省抗議団
(第13号、1979年5月)

スリーマイル島事故の衝撃の収拾と、1980年から始まる公開ヒアリング(公聴会)制度の補完を目的として1979年11月26日に強行された、原子力安全委員会と日本学術会議の共催による「学術シンポジウム」への反対運動で、上の共同行動はさらに深められる。
一方、公開ヒアリング阻止の闘いは、住民運動の結合としてよりも、当時の総評(日本労働組合総評議会)の全国動員による労働者の運動としての色彩が濃い。「国策」との全面対決である。住民運動にとっての公開ヒアリング阻止闘争の意味は、さまざまに検討されてきたが、とりわけ1983年5月13~14日に開かれた島根原発2号機計画の第2次公開ヒアリングへの反対派の参加をめぐって交わされた第60号、第61号での紙上論争が、同年8月27~28日の「反原発全国集会1983」での分科会の議論に引き継がれて、貴重な意見の交換があったことは特筆されてよいだろう。
「少しでも敵に傷を負わす闘いを」という思い、「原発建設の決定権を住民に奪い返す運動をこそ」という考え、「全国的な闘いの軸と言う面と地域の実情に合わせた闘いという面とをどう結び合わせるか」という提起……。それらの議論についての私見もあるが、ここでは第62号に寄せられた報告から、ヒアリングに実際に参加しての「結論」を引いておくにとどめたい。

島根ヒアリング参加
われわれは”真剣勝負”を闘った。いま、評価を全国の仲間に問う!

島根原発公害対策会議 福田真理夫

5月13、14の両日、島根県松江市で、私たち反対派も参加しての公開ヒアリングがひらかれました。中国電力島根2号炉建設のための第二次ヒアリングです。
その報告の前に、本紙前号、前々号の紙上論争の誤解を正しておきましょう。私たちは、いわゆる「島根方式」にいささかの幻想も持たず、もちろん制度改革などの視点でとらえていません。
これまでくり返されてきた阻止闘争は、柏崎や島根の一次ヒアリングなどでは、あるいは阻止できるのでは、と真剣に考えてたたかいを組みましたが、その後は次第に、阻止できない結果を知ってのたたかいになりました。それ自体がひとつの儀式化し、真のたたかいとは遠く、私たちの目的とする「建設阻止」や「延期」に一歩も近づけないことを実感させられました。
ヒアリングに対し、阻止行動をとろうが参加しようが、手続きはすすんでしまうのです。だから私たちは、苦悩しながらも、新たなたたかいの道を選択したのです。
目的は、ヒアリングのまやかしの実態と原発構造全体の虚構を、だれの目にも見えるかたちで明らかにすること――。
これは、2日間の場内での行動と論戦で完全に浮き彫りにできました。通産省と原子力安全委員会のなれ合い、住民無視のヒアリングの本質が、参加者の目前でみごとに暴かれました。その結果、科学技術庁の安田長官も、「通産省の答弁はきわめて不十分。住民が怒るのも無理はない」との談話を発表せざるをえなかったのです。
学者や通産エリート官僚など総勢50余名を動員し、「どんな質問にもこたえる。反対派は素人の住民ばかりで気の毒だ。手加減して恥をかかせない程度にやる」と豪語していたのに、恥をかいたのは誰だったか。通産側は住民のするどい追及をふせぎきれず、「それは対象外」「答弁できません」と、逃げと立往生の連続でした。
この点こそ、まさしく「まやかしヒアリング」の、まやかしたるゆえんです。住民の生活実感に根ざした最も切実な問題に答えられない、そうした問題を「対象外」とするのが、ヒアリングの実態なのです。紙上討論で名古屋の仲間のいう核燃料サイクルの問題は、私たち現地の人間にとっても関心事です。これらの問題は一次ヒアリングでも二次ヒアリングでも答えられないことを、御園生原子力安全委員長も認めざるをえませんでした。ヒアリングの欠陥を、何よりも明白に、島根のたたかいは暴き出せたと考えています。
同時にまた、このたたかいを通して反原発運動を強化し、ひろく住民の理解をえて、漁業権や保安林をまもるたたかいを有利に導くことも、確実に手がかりをつくったと言えるでしょう。
巻の仲間がいう「原発建設の決定権を住民に奪い返す」たたかいに、私たちも大賛成です。島根のたたかいは、それに逆行するものではなく、必要なまわり道だったと信じます。
私たちは、こうしてひとつの“真剣勝負”に勝ちました。しかし、今後の長いたたかいの道をおもうとき、重い、容易ならざるものを感じます。むろん、「島根方式の定着・拡大」などは夢にも考えていません。島根と同じことを他所でくりかえすのは無意味です。もう二度と参加はありえないという材料を、「島根方式」は、全国の仲間に提供したのです。敵に勝つ有効なたたかいの方法を真剣に模索し、全国の仲間がそれを教え合い助け合う大切さを改めて思います。
(第62号、1983年6月)

ここでまた、ちょっとだけ余談を。これまでの引用中に「敵」という言葉がたびたび出てくる。『はんげんぱつ新聞』自体、その役割をあらわすのに「たたかいの武器」と何度も自らを呼んでいる。しかし次第に、そうした“軍事用語”が減ってきているように見えるのは、意味のないことではないだろう。それに関連して、「反原発全国集会1983」の成功を報じた第66号(1983年9月)から、コラム「風車」の一節を――。

「こぶしをふりあげてのシュプレヒコールは暴力の象徴か。反原発全国集会の第八分科会で提起された問題が、集会を縁の下で支えた京都・大阪の若い人びとらの『打ち上げ会』で再び議論の的となった。こぶしは、武器をもたない、素手による抵抗を意味するのだ、という異議もあった。こぶしはダメというのなら、原発をおしつけられる現地の人びとの、腹の底からの怒りが一体どう表現できるのか、との反論もあった。
とはいえ、安易にこぶしをふりあげてよしとすることは、やはり考えなおさなくては、という点では、大方の一致が見られる。『戦術』とか『部隊』とかいった言葉の濫用についても、同様だろう。
まっとうな怒りを大切にしながら、全体集会で森瀧市郎さんが語られた『愛の文化』をどう育んでいけるのか。反原発を掲げる私たちは、とてつもなく大きな問題にとりくんでいるのだと思う」。

第八分科会は「原発のいらない社会をめざして」という、いわば何でもありの分科会だった。右の公開ヒアリングの分科会と比べると、言いっぱなしの発言が多かったらしい。「こぶし」批判も脈絡なしに飛び出したようで、そんな提起の仕方への反発があったようだ。
本筋に戻ってさっそく「敵」から始まるが、「敵に勝つ有効なたたかいの方法を真剣に模索し、全国の仲間がそれを教え合い助け合う」ことについては、『はんげんぱつ新聞』および反原発運動全国連絡会のネットワークが、不十分ながらも多少の役割を果たしてきた。
そういえば、こんな「教え合い助け合う」姿もあった。第94号で、東北電力の原発候補地である福島県浪江町の舛倉隆さんと新潟県巻町の白崎修平さんが、高木仁三郎さんの司会で、こんな会話を交わしている。

そろそろ勝利宣言してもいいかな?

棚塩原発反対同盟 舛倉隆
巻原発反対共有地主会 白崎修平
聞き手=高木仁三郎

高木 こうしてお話をうかがっていると、東北電力は、巻と浪江で両方からやられて困ったでしょうねえ。運動のほうはまた、よく連絡がとれていたですものね。
舛倉 巻で何かあっと、すぐ看板に書いちゃうでしょ。だから向こうは参ってんの。町長は議会で「巻よりは立地条件がいいから、もっと高い値段で東北電力に買わせます」って約束させられてるんだ。それで、巻で五ヶ浜の共有地が一坪4万8000なんぼだと聞けば、すぐに看板にして出すわけなのね。そうすっと、とても価格提示なんてできない。
高木 ちょっと手前味噌ですが、そのへんは反原発新聞の情報も実に巧みに利用してますね。舛倉さんが日本でいちばん反原発新聞を活用しているんじゃないか、と常々思っているんですが……。(笑)

面白い座談なので、またまた脱線して引用を続けてしまおう。

高木 もうそろそろ勝利宣言ではないかという声も……
白崎 いや、そこなんだて。私らの仲間の中にもさ、勝利宣言していいじゃないかという人がいるんだけど、別の人はまた、腹いせでもって強行するかもわからんから……
高木 あせって宣言することもない、と。
白崎 しかしそんな問題じゃないと思うね。腹いせでつくれるもんじゃないでね。
舛倉 浪江の町長がね、町がつぶれるみたいなことを言って電力に建設促進の陳情に行ったの。そしたら電力が言うには「浪江町と東北電力は心中できない」。(爆笑)
(第94号、1986年1月)

巻の計画は白紙に戻され、浪江ではその後も長きにわたって計画を食い止めてきたが、住民たちは福島第一原発事故により避難を余儀なくされた。口惜しい限りである。

*より深く、連帯へ――放射性廃棄物問題から

さて、「教え合い助け合う」と言っても、見方によっては地域の利害が対立してさえ映る核燃料サイクル関連施設の立地、とりわけ放射性廃棄物の貯蔵・処分施設の立地計画もある。高レベル放射性廃棄物の処分候補地については、「候補地の候補」での文献調査にも、どこでも入らせずにきた。しかし、それだけでは不十分だと、岡山の運動は訴える。

高レベル廃棄物処分候補地の公募開始
岡山の拒否運動

放射能のゴミはいらない!県条例を求める会 西江清吾

原環機構(原子力発電環境整備機構、NUMO)は、高レベル放射性廃棄物を地層処分する候補地の公募を12月19日に発表、「応募要領」「処分場の概要」「概要調査地区選定上の考慮事項」「地域共生への取組み」の4点セットを全国3,200のすべての市町村長へ発送した。「処分場にしない」かの確認書を当時の科学技術庁長官から取り付けた道県などでも、例外扱いはない。
中国山地の花崗岩は、以前から国が地層処分の適地として狙っているところである。岡山県内では、すでに山宝(さんぽう)鉱山で1981年に地下100mの坑道を掘り、歪みや圧力などの実験をしている。1985年には哲多地区で1,000m規模のボーリングを誘致する動きが日本原子力産業会議のリードで始まり、反対の運動で哲多町・哲西町で高レベル廃棄物拒否の宣言が採択された。同じ頃、他にも高レベルがらみの不審な動きが始まり、1986年から上斎原(かみさいばら)村の旧動燃人形峠事業所内で1,000m規模のボーリング調査が行なわれていた(北海道の幌延、岐阜の東濃でも同規模のボーリング)。
1989年、岡山県内各地域の高レベル廃棄物拒否運動が大同団結し、「放射能のゴミはいらない!県条例を求める会」が発足した。翌年、県議会で高レベルを拒否する条例制定の署名運動を行ない、120万有権者の約4分の1の署名を集約した。臨時県議会で条例案は否決されたものの、知事は「県民に不安を与えるような施設を誘致するつもりはない」と高レベルを拒否する議会答弁で現在に至っている。
それから10年間、2000年に焦点をあわせ、会員を募り、事務所を維持し、会報で高レベルの最新情報を提供し、ホームページの開設など高レベルの危険性を広く県民に伝え、活動家の養成を行なってきた。いま、1,000ヵ所学習会運動を続けている。
私たちは、20年間の運動のポイントとして自治体と地主の承諾は地層処分に必要条件だと位置付け、狙われている市町村に対して繰り返し高レベル拒否を求める要請活動を続けてきた。そして、12月の公募開始を見越して11月からあらためて県内78市町村長への要請(説得)活動を開始した。
首長への要請活動はほぼ終了したが、当面は応募するつもりはないとする反応である。しかし、これは第一ラウンドで外交辞令といえる。これから政治屋・議会・商工会・建設業界・有力者の蠢きが本格化することは間違いない。岡山県は人形峠周辺が経産大臣の選挙地盤でもある。
私たちは、さらに第二ラウンドとして、オリジナル・ビデオテープやリーフレットを教材に、議員・住民・職場で高レベル廃棄物の恐怖を訴え、拒否する運動を組織的に広げる準備を進めている。
いま、全国の市町村で地層処分をいっせいに拒否する運動が重要である。そのためには全国の仲間と連帯なしにはできない。
(第298号、2003年1月)

そこでは、経験や教訓の共有という以上に、反対運動の意義の共有化と深化、そして共同の行動が必要となるだろう。
この共同行動は、決して日本の国内のみにとどまることはできない。日本の原子力発電所の運転は、核燃料サイクルの各工程において、アフリカやオーストラリアや北米やヨーロッパやの人びとの犠牲の上に成り立っているという事実からすれば、当然のことだ。
太平洋への放射性廃棄物の投棄計画を、海に生きる人びとの力強い反対と国際世論によってあきらめさせた実績を、私たちは持っている。力弱くして目にみえる成果はないものの、英仏の再処理工場に向けて使用済み燃料が送り出されるのに抗議する行動も、各地でつづけられてきた(すでに終了)。1984年10月刊行の号外「核燃料輸送特集」で、浜岡原発に反対する住民の会の小村浩夫さんは言う。

核物質の国際輸送に反対し
核燃料サイクルを断ち切ろう

浜岡原発に反対する住民の会 小村浩夫

私たちは各地の人々の協力を得ながら、使用済み燃料搬出には、かかさず抗議の声をあげてきた。果敢なデモでトレーラーを停めたこともあるが、たいていは少人数のささやかな抗議行動である。機動隊に包囲されながら抗議の声をあげる私たちの前をピカピカのキャスク(輸送容器)が、我がもの顔に押し通っていく。いずれ、この使用済み燃料から出るプルトニウムと高レベル廃棄物が、日本へ送り返されてくる。そのとき反対をいうだけでは手前勝手すぎる、今ここで搬出について反対の気持ちをいっておこう。それが私たちの思いである。

1984年11月、フランスからプルトニウムが送り返されてきた。全国の39団体が輸送反対の緊急共同声明を発表し、科学技術庁への申し入れや東京湾への入港当日の抗議行動などがとりくまれた。右の号外は、そうした行動に呼応して発行したものだ。小村さんの説くところをもう少し引いておこう。

使用済み燃料から抽出したプルトニウムが250㎏も日本に帰ってくる。ヨーロッパで搬出反対の行動があった。私たちも搬入反対を行動で示したいものだ。この問題は原発事故や立地問題にくらべ、原子力発電所立地点の人々にとって、もうひとつピンとこないところがある。しかし、核燃料サイクルのなかで、使用済み燃料やプルトニウム輸送はもっとも弱い環である。ここを撃つことで、プルトニウムの軍事利用、高速増殖炉、ひいては原発の運転そのものにも打撃を与えることができるはずだ。
(号外、1984年10月)

「原子力発電所立地点の人々にとって、もうひとつピンとこないところがある」との懸念は、たとえば10年後の次の報告が払拭してくれる。北陸電力志賀原発などでも、同様の行動は実施された。

使用済み燃料をイギリスに送るな!
泊原発からの搬出に陸海で抗議

岩内原発問題研究会 辻 陽子

「パシフィック・ピンテールは帰れ!」「使用済み燃料をおろせ!」。さまざまな怒りの声や抗議の声が、北海道岩内町のフェリー港そばの、泊原発がよく見える砂浜に渦巻く。市民グループがチャーターした漁船が、各グループや労組の旗をなびかせて輸送船パシフィック・ピンテールを追う。9月19日、泊原発から運転後初めての使用済み燃料が、イギリスのセラフィールド再処理工場に向けて搬出された。”再処理をする国や輸送船の通る沿線国のみなさんに迷惑をおかけする””われわれはプルトニウムをこれ以上持ってはいけない”——そんな思いが続々と泊に結集した。情報公開もなく、搬出日時さえ定かにわからない状況の中、Xデーは19日とのウラ情報を頼りに各地の市民グループが数日前から駆けつけてくれ、岩内原発問題研究会など地元グループとの連携で多彩な搬出反対アピールがはじまる。街宣車で訴え、ビラをまき、声をかけ、搬出反対の理解を求める。
北海道電力のPR館前では、「子供の未来に放射能はいらない」などと書いた横断幕を手に抗議。必死に「敷地内です。退去してください!」と排除しようとする力に抗ってねばること1時間近く。訴え、抗議し、歌をうたい、青森県佛六ヶ所村から来てくれたお坊さんのお経まであげて、大いに見学者の関心を引いた。
また、札幌でも北電本社前で、反原発グループが座り込みやビラまきなどの行動を展開し、200枚ほど用意したビラが瞬く間になくなる反応だったという。搬出前日の18日夜には、岩内で国際色豊かに各地から集まった50人ほどが集い、交流する。オーストラリアの人からの、アイヌウタリからの、そこにいるすべての人からの、力強い言葉に勇気づけられる。
搬出当日、海はあくまで穏やか。空は突き抜けるような秋晴れ。暑くも寒くもない。一年のうちにそう何日もない良い日だ。それらのすべてを裏切るような物質がいま、運び出される! ヘリコプターが数機、轟音をたて騒然としてくる中、続々と抗議集会に参加する人たちが集まってくる。その数およそ800人。沖には抗議船。11人乗りの小さな船だが、胸が熱くなる。なにぶん市民グループで出した初めての船なのだ。なりは小さいが意気は高い。海と陸から沸き上がる反対の声、抗議の声は、ピンテールへ届く勢いである。集会で読み上げられた、フィジーやパナマからの、またイギリスからの、そしてそれらを徹夜で翻訳して送って下さったアイリーン・スミスさんや高木仁三郎さんからの連帯のメッセージは、とりわけ深い感動を与えてくれた。
専用港の中にいて鼻先しか見えなかったピンテールが、そろそろと現われた。一段と高い抗議の声をあげながら、全員が波打ち際に寄っていく。アイヌウタリの戦いを告げる「ウォーイ」という音声がお腹に響く。小さな抗議船が巨体のピンテールを追う。横腹近くまで近づく。しかし、そのスピードの違いに、みるみる離される。……ピンテールは視界から消えた。
合法的に、物理的に搬出をとめる力を私たちは持っていない。が、ここに世界の民衆との連帯の輪ができた。なにより強い力を、私たちは得ることができた。ここからまた、決然としてひるまず、「核燃料サイクル」の輪を断ち切るための、原発をとめるための戦いはつづいていく。
(第211号、1995年10月)

英仏への再処理委託は終了し、使用済み燃料が送り出されることもなくなった。一方で、青森県六ヶ所村の六ヶ所再処理工場への輸送がはじまる。

貯蔵プール満杯の伊方原発から
完成の見通し不透明な六ケ所再処理工場へ
使用済み燃料が搬入された

伊方原発2号炉訴訟原告 斎間 満

愛媛県伊方町の四国電力伊方原発から搬出された使用済み核燃料28体(ウラン重量11トン)は9月3日、青森県六ヶ所村の日本原燃の再処理工場の貯蔵プールヘ運び込まれた。この模様を伝える新聞、テレビは、「輸送容器データ改竄で中断していた使用済み燃料の搬入が再開された」と、いっせいに報じた。しかし、今回のニュースのポイントはそこなのか。
完成の見通しも定かでない六ヶ所再処理工場。そんな場所に大量の死の灰をふくんだ使用済み核燃料を運び込んだことこそ、人々に知らされなければいけないニュースなのではないのか。そしてもう一つは、そんな場所へ放射能廃棄物を運ばざるをえなくなった、糞詰まりの伊方原発など全国の原発の切迫した「明日なき状況」が問題ではないのか。
「測定器の校正試験用」の名目で、伊方原発からいち早く使用済み核燃料が運び出されたのはなぜなのか。それは、伊方の実情を見れば明らかだ。伊方原発の1、2号炉の貯蔵プールはほぼ満杯で飽和状態。このままでは定期検査の際の核燃料の取り換えもできない状態だ。地元ではマスコミがこの危機的状態を相次いで明らかにした。
せっぱ詰まった四電は、3号炉の貯蔵プール内の使用済み核燃料の間隔を詰めて容量を2.2倍に増やし、1、2号炉の使用済み核燃料をそこに移す応急措置をすすめはじめた。詰め込まれると、死の灰の崩壊熱や地震の影響などで危険性が高まることを無視した暴挙だ。
六ヶ所には10月に九州電力の川内原発からも使用済み核燃料を運び込むという。7月末でやっと21%までしか工事が進んでいない再処理工場へ使用済み核燃料を運び込まざるをえないという状況。「完成など待っておれない」事態が、全国の原発で起きているのだ。
問題は、再処理や高レベル廃棄物の最終処分の計画図も見えないまま、全国の原発から使用済み核燃料を運び出さざるをえなくなった、場当たり的な原子力行政ではないか。日本列島を放射能漬けにするしか見通しが立たなくなった”糞詰まりの原子力行政”。かつて「絶対安全」を声高に掲げ、神頼みの科学技術に頼った原子力行政が、この国に住むわれわれの生命や財産を脅かす存在になっていることが、ハッキリと見えている。
(第259号、1999年10月)

「死の灰」の捨て場はごめん
反核燃運動の再燃を

青森県三沢市 伊藤裕希

9月3日、昨年10月以来11ヵ月ぶりに使用済み核燃料が六ヶ所村に搬入された。昨年10月の初搬入直後に発覚した輪送容器のデータ改竄事件で搬入は中断されていたが、容器の設計変更という安全基準の改悪で、今回も問題の容器は再使用された。
この日、青森県内外から六ヶ所村むつ小川原港前に、搬入阻止のため集まったのは約200人。専用輸送船「六栄丸」からトレーラー2台に陸揚げされた使用済み核燃料11トンが再処理工場に陸送されるのを止めようと、港のゲート前に座り込むなどしたが、警備陣によって暴力的に強制排除された。
本格搬入前の燃焼度校正試験用の搬入はあと一1回。10月22日の13トンが予定されている。年明けからは本格搬入のための県、村と日本原燃との「安全協定」締結が課題となる。再処理工場はいまのところ2005年7月の操業開始となっているが、それまでに1,600トンの使用済み核燃料を各原発から受け入れる計画だ。
さて、われわれはこれら推進側の計画を予定どおりに許すわけにはいかない。9月30日の東海村の臨界事故は、六ヶ所の核燃をとりまく状況にも大きく影響を与えるだろう。原子力行政への住民の不安はさらに募り、単なる「死の灰」の捨て場と化す六ヶ所村の現状と未来に対し、反対する動きが再燃する可能性は大きい。
県や村は原子力防災計画の見直しの意向を表明しているが、私たちはまず10月22日の3回目の使用済み核燃料の搬入を阻止し、本格搬入への「安全協定」締結をさせないこと、そして再処理工場の建設凍結を実現していく闘いを強めていきたいと考えている。
(同上号)

搬出する側と搬入される側。第343号に柏崎からの決意が述べられている。

我々は、使用済み燃料の六ヶ所搬出に抗議する。

柏崎原発反対地元三団体 矢部忠夫

東京電力は今年度、9月以降に柏崎刈羽原発の使用済み核燃料608体を3回に分けて六ヶ所へ搬出するとしている。当サイトでは、2002年9月、東電の事故隠しスキャンダル発覚のドサクサのなか、228体が青森に搬出されており、以来2回目となる。
我々は、搬入される新燃料については、1号機用新燃料が搬入された23年前から毎回、1回も欠かさず抗議行動を続けている。「核燃料はもちかえれ!」と。
使用済み燃料の搬出は、もともとの約束であり、地元住民感情は1日も早い搬出は当然と考えている。我々もまた、原発各サイトは早期搬出を迫る運動を展開し、受け入れ側、つまり青森側は搬入させない運動を強化することが、ひいては核燃料サイクル政策に止めを刺すことになると、かつては考えていたことも事実である。
しかし、高速増殖炉の破綻、依然として解決策のない高レベル廃棄物処分の問題、にもかかわらず再処理をする矛盾、そして、現実に起きている六ヶ所再処理工場のトラブルの数々。さらに何よりも、再処理により抽出されるプルトニウムが、いずれMOX燃料として各地の原発に戻ってくる現実を注視したとき、我々は、使用済み核燃料の再処理はとうてい認めることはできないし、その前提となる使用済み核燃料の搬出も認めるわけにはいかない。
再処理工場に不安、懸念を表明し、反対運動に立ち上がっている青森県民や岩手県、宮城県など沿岸の住民の人たち、プルサーマル強行に反対する各地の人たち、そして原発震災の起きる前に原発を止めようとする多くの全国の人たちと連帯してたたかうためにも、使用済み核燃料は、嫌でも各サイトで一時保管させるしかない。
これらの視点から8月30日、県内の反原発団体や多くの市民、周辺の住民参加のなか「使用済核燃料搬出を考える学習会」を開いて搬出が抱える諸問題を確認し、参加者一同で「搬出に抗議する決議案」を採択、後日、東京電力に厳重申し入れ、抗議し、決議文を手渡した。しかし残念ながら9月12日に搬出が強行され、六ヶ所貯蔵施設に15日搬入されてしまった。
我々は、今後も使用済み核燃料の搬出にはあくまで反対し、抗議しつづける決意である。
(第343号、2006年10月)

青森県は、使用済み燃料のみならず放射性廃棄物の一大集中県になろうとしていた。

青森に核のゴミを集中させるな
再処理工場竣工、15回目の延期の陰で

核燃サイクル阻止1万人訴訟原告団 山田清彦

青森県に、いま核のゴミが一極集中しそうな動きがあります。自然豊かで第一次産業の生産額が大きいのに、万が一の事故が発生すれば、風評被害で農漁業者の生活が全壊する危険性が高い。これは茨城県東海村のJCOが1999年9月30日に臨界事故を発生させた後の教訓です。ところがそれを忘れたかのように、核のゴミ関連施設の誘致に首長が懸命です。
六ヶ所村には、既に核燃サイクル4施設(ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設施設、高レベル放射性廃棄物一時貯蔵施設、再処理工場)が建設・操業されていますが、ガラス固化体の製造不調が原因で、再処理工場の竣工時期を来年2月とする15回目の延期を決めました。
再処理工場が動くだろうと想定して、製品であるプルトニウムとウランの混合燃料であるMOX燃料の加工工場建設計画があります。その上、ウラン転換施設、再転換施設、さらには燃料加工施設までも誘致したい意向を六ヶ所村議会等が示しています。
東通村には4基の原発が建設される計画です。既に運転している東北電力1号機の側に新しい鉄塔が用意されています。これは東京電力1号機用で、未架線の鉄塔が南と北に建てられ、準備工事も始まっています。
むつ市の使用済み核燃料の中間貯蔵施設は、まだ国の許可が出ていませんが、敷地の準備工場が始まり、来年4月着工の予定です。
再処理工場の製品・MOX燃料を最大に消費する予定の大間原発に至っては、実にアバウトな計画です。当初は建設に5年8ヵ月かかるとしていたのに、3年10ヵ月に短縮して今年5月に着工。ところが、11月になって14年11月運転開始と発表して、工期が6年6ヵ月に延びました。この延期はプルサーマール計画の遅れを意味するので、青森県三村知事が国に核燃料政策に揺るぎがないのか確認に出向いています。
以上は、下北半島で進みつつある核燃料サイクル関連施設の進捗状況です。そして、もう一つの核のゴミ最終処分場誘致計画が津軽郡下の鰺ヶ沢町で進みつつあります。ここには、原子力船むつが残した核のゴミ、東海村の核関連施設に貯蔵されている核のゴミ、大学の研究施設にある核のゴミ等も運ばれます。それらを、「医療系廃棄物等」と総称するので、安全と思いこまされてしまうわけです。
首長らは、核のゴミを受け入れれば、関連交付金が入り、地域を豊かにすると信じています。しかし、放射能の影響に脅え、子や孫たちに悪影響が出るのを脅えて暮らすのはまっぴらです。これまでの原子力関連施設の建設計画には、県民を上げて反対行動を展開してきました。そして、今後出される建設計画にも、反対行動に断固として取り組むべく準備を進めています。全国の皆さんの支援を心から期待します。
(第369号、2008年12月)

再処理工場の操業開始はさらにさらに延ばされているが、いずれ断念が必至である。

もの言える町へ――再生への模索

全国的な共同行動、国際連帯といったところで、もちろん、自分の足元を確かなものにすることと共に行なうのでなくては、単なる空語と化す。なかでも、初期のうちに建設がすすみ、次々と増設を余儀なくされた地点、大きな事故が起きたあとでさえ、たとえば署名という形で自分の意思をあらわすことすら困難にされている町を、再び「物言える町」にしていくかは、これからの大きな課題である。
「過疎化」の進行においつめられた自治体の原発誘致熱のほうが、電力会社の建設熱よりも、はるかに高い。というより、いやがる電力会社に建設を迫るというほうが実情に近いだろう。そうした立地自治体の状況を、福島の石丸小四郎さんの報告に見るとしよう。

原発と地域経済
福島からの報告

双葉地方原発反対同盟 石丸小四郎

東北電力の供給区域内にありながら東京電力の福島第一、第二原発のある福島県双葉郡は、県の太平洋岸の浜通りに位置し、6町2村からなる。人口は7万6,000人である。第一原発6基計469万6,000kW、第二原発4基計440万kWに加えて、これも東京電力の広野火力4基計320万kWがある。電気出力の合計が約1,230万kWという、全国でも有数の電力供給地帯である。
その上さらに、60万kWの広野火力5号炉が建設中、同出力の6号炉が建設準備中であり、また、福島第一原発7、8号炉計276万kWの増設が計画されている。
福島第一原発は、1〜4号炉が大熊町に、5、6号炉が双葉町に立地されている。5、6号炉の建設で双葉町は、一時的に町財政が潤ったが、財政力指数が一を超えての地方交付税の不交付期間は11年間で終了し、1990年には財政力指数が再び一を割り込んだ。1993年に同町議会は、町財政の悪化を理由に原発増設決議を採択している。
大熊町では固定資産税が増えているが、これは、シュラウドの交換や使用済み燃料貯蔵プールの増設などによるもの。老朽化と使用済み燃料の貯め込みという、運転開始当時には考えもしなかったツケを払うことの見返りとも言える。

電力の経費縮減で打撃
双葉郡の他の町も、事情は変わらない。郡全体にこれまで支払われた電源三法交付金と固定資産税は、1,800億円に達する。そのうち三法交付金は288億円である。
これらの収入の打ち切り・減衰に加え、東京電力の財務の悪化にともなう設備投資の縮減が、地元経済に打撃を与えている。
東京電力は、電力需要の伸び悩みと供給過剰の状態にある。同社全体での設備利用率は50%で、1,000万kWの余剰があるという。経営を圧追する有利子負債が、減り始めたとはいえ、年商の2倍近い10兆円。利払いだけで年に3,700億円以上を返さねばならない。総資産が14兆円だから、負債率は75%に達する。倒産度ランキングの17位に、東電が入っている。
定期検査の期間短縮や長期連続運転が、地元の協力企業の経営を圧追する。たとえば、定期検査の期間が90日から40日に短縮されて4年が経ったが、その結果として、地元のある企業は「売り上げが3分の1に落ちた」と嘆いている。また、経費の削減も地元企業からの受注を減少させている。東京電力は、今までより安い品物を求めて、これまでの双葉郡内から浜通り全体、さらに福島県一円の企業から品物を納入させるようになった。
猛暑で最大電力需要が伸びている今年でも、まだ供給能力が過剰であることに変わりはない。増設はもともと無理な話なのだ。メーカーに対して大幅なコストダウンを強く求めているなかでの増設は、下請け、孫請けへとしわ寄せが行なわれ、工事の手抜きは必至である。いっそう危険性が増すことは避けられない。

でたらめ公共事業の縮図
東京電力は、県内の6施設に計231億5,000万円の寄付をし、漁業補償金計152億円を支払った。利用者が少ないのにバレーコートが三面もとれる体育館、立派な駅ビルなどだ。楢葉町と広野町にまたがるサッカー総合練習施設「Jヴィレッジ」(建設費130億円全額を東京電力が寄付)は、3年連続の黒字と言うが、東京電力と関連企業の協賛金3億5,400万円がなければたちまち大幅赤字となる。
電源三法交付金で建てられる施設は、どれも住民の役には立たない。その典型が、筆者の住む第二原発の地元、富岡町の富岡漁港の例である。古老が「流砂で港が埋まるからやめろ」と言っていたのに、つくった。漁獲高わずか3,000万円の漁港に、総事業費43億円もかけた。しかも、流砂で入口が埋まり、毎年、砂出しや改修に金がかかる(一昨年度2億4,000万円、昨年度1億6,000万円)。この工事は自民党系の県会議員の会社が請け負っている。日本全国の公共事業のでたらめさの縮図である。
(第281号、2001年8月)

実際に原発が建てられたどの地域でも、「地域の活性化」の期待は大きく裏切られている。しかし、そうした現実をいくら見聞きしても、誘致自治体は「わが町は同じ轍を踏まずに、うまくやっていく」と考えを変えなかった。その思い込みをこわし、別の道を示すことが反対運動にも必要だ、と多くの人々が“村おこし”“町おこし”の模索を始めている。

熊野市議会特別委の活動を凍結
市民の力、推進の芽を封じる

熊野原発反対同盟連絡会事務局 更谷令治

計画が明るみに出て以来14年間、中部電力の原発立地を水際で阻止しつづけてきた三重県熊野市の反原発の闘いも、「拒否決議を白紙にもどし調査研究機関をつくる」という本年3月議会での抜き打ち的な決議によって大きな山場を迎えましたが、7ヵ月後の10月28日の市議会全員協議会で「原発調査特別委員会(6月議会で設置)の活動を凍結する」と申し合わさせることに成功しました。
これは、強力な漁民・市民の運動を背景にした八人の原発反対市議のねばり強い活動によって多数の推進派議員を追い詰めたもので、拒否決議が白紙にもどされたままであるものの、推進決議への道を閉ざしたと言えます。
3月議会での議員提案の眼目は「急速な過疎化の現状のもとでの地域活性化」という大義名分にあり、反対運動もまた、この問題にガチッと喰いこむ運動を考えてきました。そこで、私の所属する自治労熊野市職労では、みかんやサンマの丸干しなどの産地直送のあっせんを2年前から行ない、一定の成果を上げてきました。さらに今年は、全国キス釣り大会を自治労三重県本部の主催で11月10日に誘致し、1,800人が参加する一大イベントに市は湧きかえりました。
これらの運動の取り組みのなかで、原発推進に傾きかけていた幹部もいた金山パイロットみかんでも、今年の3月議会からの闘いでは、金山出身の市議に強力に働きかけてくれるなど、私たち市職労をして「よかったのう。俺らの闘いはこれからだ」との自信を強めさせる成果がありました。
(第93号、1985年12月)

同様の、より持続的な活動は、いまも続いている。第329号、第330号から引用しよう。

森と暮らすどんぐり倶楽部
原発立地地域で原発に反対しても商売はやっていける

福井県美浜町 松下照幸

原発立地地域には、「原発に反対しながら商売をするのは無理だ」という言い伝えがある。でも、それは考えようだ。良い商品・良いサービスを提供すれば、お客様は必ず理解してくれる。そのように考えて、私たちは「林業」に挑戦を始めた。林業というと、杉や檜に代表される木材の生産・販売をイメージしがちだが、ちょっと違う。
「私たちの林業」は、森の恵みを活かそうというものだ。私たちは林の中の青空教室で森林の大切さを訴える。森の案内もする。林業に嫌がられるツルは、かごやリースにして楽しむ。山野草を摘んで料理もする。木の葉や枝を使ってクラフトを作る。私たちは、小さなキャンプ場も作った。そこには露天の五右衛門風呂もある。自分たちで水を汲んで、自分たちで風呂を沸かす。ガスや電気で煮炊きすることしか知らない現代人には、火を使うことはとても新鮮だ。「煙が目にしみる」などという表現をそのまま体験できるバーベキュー施設もある。私たちの倶楽部は「小さなシステム」を意識している。できるだけ自然を感じていただけるように「不便さ」を演出してもいる。
それらは、森と暮らすどんぐり倶楽部の基本方針である。おおげさに、森と暮らすどんぐり倶楽部の「経営哲学」という指針も作った。この指針を読んでいるだけでも、ワクワクしてくる。事業がスタートすると、テレビ局や新聞、雑誌から多くの取材があった。地域でも大変な話題になった。全国ネットの有名番組からも取材の打診があった程である。
今、美浜町では「若狭美浜はあとふる体験」事業が進められている。修学旅行生徒を体験実習で呼び込もうという企画である。我がどんぐり倶楽部も重要なメンバーとしてこの事業に関わっている。昨年、関電は美浜町の原発増設要請を正式に断った。私が町議会で主張したとおりになった。美浜町の原発は古く、ここ数年のうちに2基が停止すると私は予測している。美浜町が原発のない町になる。そういう時代に入った。そういう背景の中で、「若狭美浜はあとふる体験」事業が脚光を浴び始めた。またしてもそこへ、美浜3号機事故なのである。地域で何かをやろうとすると必ず原発がじゃまをする。
地域の人たちやマスコミは、私が原発を痛烈に批判していることはよく知っている。「原発のある町で、原発に反対して商売はやっていけない」などと誰が言ったのか。事業を始めて4年目。私たちの計画どおりに、森の事業は順調に進んでいる。
(第329号、2005年8月)

六ヶ所村に等身大の地場産業を

青森県六ケ所村 菊地慶子

前号で松下照幸さんの「森と暮らすドングリ倶楽部」を読み、「原発のない美浜町」を想像して楽しくなった。原発にとらわれなければ可能性は無限に広がる。
私たちも六ケ所村で「核燃に頼らない村づくり」を訴えて、毎年「チューリップまつり」を開催している。12回目の今年も2週間で約2,500人が訪れた。核燃に反対する村民はまともに相手にしてもらえないような推進一辺倒の村の中で、社会的に認知されるようになり、今では村の風物詩として定着している。
この「まつり」を支えるために、年間を通じてたくさんの方々から物心両面の援助をいただいている。昨年からは世界的な有機農業支援組織であるWWOOF+援農で、体力的にはさほど無理をしなくても「まつり」を運営できる見通しが出てきた。しかし経済的には厳しく、特に今年のような悪天候のときは収入が激減して、赤字は増えるばかり。「核燃に頼らない」という主張に現実味をもたせるにはやはり収入も大切である。
チューリップまつりのほかに、豊かな自然を生かして、村の、特に女性たちが収入を得られるような、そんな産業ができないものかと情報を集めていたが、どうやら目星がついた。2~3年たって事業が軌道に乗るまでは公表しないほうがよさそうだが、前途は有望。この秋は球根販売を中止して、新しい事業の準備に全力をあげている。
チューリップ栽培の年間を通した作業で「牛小舎グリーンツーリズム」を実践してもいるが、採算の合う企業化にはまだ遠く、不便さは演出するまでもない日常のこと。体力のない中年以降の方や子ども連れのご家族には、どうしても自宅を解放せざるを得なくなる。
一方、牛小舎には昨年から、WWOOFをはじめ若者が頻繁に訪れるようになった。環境を大切にする彼らに共通しているのは創造への情熱と好奇心。そこで、この若者たちに自然素材の建物を作ってもらおうと考えた。材料は青森県産杉の間伐材とストローベイル。8月から手始めに4メートル×8メートルのベランダを作りはじめた。次は間伐材のバイオトイレに挑戦する予定だ。
核燃施設、そして再処理工場がどうなるのか。事態は予断を許さないが、この地でできることは限られている。それなら無理をせず楽しいことをした方がいい。楽しいことをしていれば人は集まる。六ケ所村の問題にも気づく。
事態がこの先どうなろうと、自分で育てたものを食べ、この地に根を張りながら、六ケ所村での楽しい生活を発信し、(願わくは)のんびりと暮してゆきたい。
(第330号、2005年9月)

原発計画を白紙にもどせば、地域は再生できる、と第367号で和歌山県日高町の一松輝夫さん、浜一巳さんは言う。風力発電所への対応についても注目されたい。

原発を拒否した町
和歌山県日高町はいま

一松輝夫さん(日高町議会議長)
浜一巳さん(比井崎漁協理事)

 以前は推進・反対に分かれて、漁船の進水式でも結婚式でも、推進のなら反対は出ない、反対のなら推進は出ないという状態だった。それがいまは、そんなこと過去にあったかな、というくらいに元に戻りました。漁協では推進派だった理事、反対派だった理事が、いろんな問題で同じように物事を考えられる。そんなふうになってきています。
一松 いま問題になっているのは風力発電所です。20基くらいの計画があって、2、3日前にも愛媛の伊方町へ行って健康被害の状況を聞いてきたんですよ。
――昨日もお会いしましたが、和歌山市のお医者さんの汐見文隆先生が超低周波の被害を調べていらっしゃいますね。
一松 伊方町では人が住んでいるすぐ近くに建っていて、こんなことがよく許可されたと不思議な気がしましたね。うちの場合はだいぶ離れているからだいじょうぶとは思うけれど、原発を拒否した町だからこそ、十分に検討をして間違いのないようにしたい。
――町の財政は、やはり厳しいんでしょうね。
一松 大きな企業もない小さな町が、交付金を毎年減らされると死活問題です。
――それでも、原発という話は出てこないのですか。
一松 議会でもいろいろな集まりでも、まったく出てきません。お金はたいへんだけど、また町を割るようなことはしたくないと、推進派にしても身にしみていますから。
お金がない、大きな工場もこないなかで、皆の知恵で絵を描かなくては。ただ、日高町は人口が増えている町なんです。子育て支援にも力を入れていますし、退職された方が戻ってきたりで……。
――漁協はどうですか。
 赤字は出さずに、何とか黒字をつづけています。原発を拒否したときに、あぶく銭でなしに自分たちでかせぐと大見得を切った手前、徳島の漁師仲間から教わって太刀魚釣りの漁法を新たに取り入れて収入を上げたりもしました。
(第367号、2008年10月)

チェルノブイリへの応答――放射能電話相談・伊方反対運動・「脱原発法」制定運動

時計の針を戻して1986年4月26日、ソ連(当時)のチェルノブイリ原発四号機で大事故が起きた。この事故では、それまで反原発の運動にかかわってこなかった人たちの反応のほうが、かえって敏感だったと言ってよいかもしれない。
そこで、大阪、京都、福井、東京などで設置された「放射能電話相談」には、政府の“安全宣言”にもかかわらず、電話が殺到することになった。

放射能の不安、広く深く
電話相談に質問が殺到――大阪

原子力災害研究会 和田長久

チェルノブイリ原発事故の後に大阪で結成された原子力災害研究会では、5月17日から「放射能の不安に答える電話相談室」を開設した。この開設にあたっては、毎日、朝日の両紙が16日の夕刊でかなり大きく扱ってはくれたが、一方、科学技術庁が「大気中や雨水からの放射能検出は大幅に減少した」として観測態勢の縮小を発表した折でもあり、はたしてどの程度の相談があるだろうかと、不安を抱えたままのスタートであった。
だがしかし17日の午前、臨時電話を取り付けた直後から電話が鳴りっぱなしという状態で、結局、当初の予定だった24日にはとても終わらせることはできず、27日まで延長することにした。時間は一応、午前1時から5時までにしているが、それには関係なく、電話は鳴りつづけている。
電話をかけてくる人たちのほとんどは女性である。妊娠中の人や乳幼児を抱えたお母さんだ。牛乳を飲んでも大丈夫か、野菜は、水道水はどうかといった質問から、雨に濡れたが心配はないだろうか、洗濯物を外に干しても大丈夫だろうかといった質問まで、実にさまざまな相談がかかってくる。科学技術庁が許容濃度以下だから安心といっても、誰も信用していないのである。
私たちは、相談室を始めるにあたって、牛乳については牧草をよく食べている牛とそうでない牛とではかなり違いがあるが、いちいち調べることはできないので、用心のために約2ヵ月は控えたほうがよいと答え、葉菜についてはよく洗って食べるように答えることにしていたが、京大原子炉実験所の分析で、洗ってもかなり放射能が残ることが明らかになったため、葉菜類もできるだけ控えるように答えることに変更した。

母乳からもヨウ素検出
19日の夜、原子炉実験所の今中哲二氏らに分析を依頼していた母乳から1リットルあたり約30ピコキュリーのヨウ素131が検出されたという連絡があった。これを発表するかどうかは、かなり迷った。ノイローゼになるお母さんがでるのではないかなどと、ずいぶんためらった後、20日に記者会見することにした。事実を知った上で、そのような状況に私たちすべてが置かれていることから、どうすればよいかを考える以外に出口はない、と判断したからである。
この後、電話相談にも、どうすればよいかという質問が多くなったが、150万人の乳児が1リットルあたり30ピコキュリーの母乳を1ヵ月飲みつづけて、50年間に2~3人のガン発生の危険であり、これを少ないと見るかどうかはそれぞれの判断にまかせることにし、「母乳はやめないほうがよいと思う」と答えることにしている。
相談件数は1日50件から60件に及び、もし電話を何本も設置すれば、それだけ相談件数も増加しただろうと思う。相談室を設置して痛感したのは、ほんらい行政がしなければならないことがまったく行なわれていないために、不安が高まっているということだ。相談してくる人たちの不安は当然の心配であり、むしろ健全な思考をしているからだと思われた。ただ、一人ひとりの心配は、多くの場合、自分の子供のことだけに限定され、全体の状況にまで目がいかないことが問題である。もしこのような国民の関心をもっと社会的に広げることができるならば、私たちの反原発運動は大きく飛躍させることができると思う。今回の電話相談室の設置は、相談に応じた私たちにとっても、よい勉強になり、得るところが大きかった。
(第99号、1986年6月)

現在の状況と、ほとんど変わらない。なお、文中の「ピコキュリー」は旧い単位で、現在使われている「ベクレル」に換算すると、30ピコキュリーはほぼ1ベクレルに相当する。それが、1キログラムないし1リットルあたり370ベクレルを基準とする食品の輸入規制の問題へとつながった。また、四国電力が1987年末から88年はじめにかけて夜間の原発出力を下げる「出力調整運転」を行なおうとし、チェルノブイリ原発事故の原因の一つである低出力運転と同一視されて反対運動が広がった。

伊方原発出力調整反対「原発サラバ記念日」に参加して
みんなで平和に暮らすために

長野県小諸市 新井正子(おむすび長屋)

2月10日午後6時、小諸発四国電力行きのバスに乗り込んだ。12日の午後9時から行なわれようとしている伊方原子力発電所での出力調整実験を止めるために。小諸からはすでに佐久からの人たちが一緒で、上田、松本へと長野県内の仲間を増やし、四国へ向かった。
翌11日午前8時ごろ、香川県高松市の四国電力前にバスは着いた。やや寝不足の体にムチを入れるかのように、体を起こす。バスを降りてはじめて目にしたものは、四国電力の前で実験を中止させようと数日前から断食して座り込んでいる人や、真冬の冷たい地べたに直に腰をおろし、お経をとなえている人。そんな底知れぬ姿に、私は思わず身震いしてしまった。
この日午後1時より、高松市の中央公園で、「原発サラバ記念日」と題し、集会が行なわれた。約3,000人が集まり、北海道、青森からもやってきた。4時に集会は終わり、四国電力の前に行くと、すでに先にきていた人たちが「実験中止」と叫んでいた。
この日、夜6時のバスで帰る予定だった。でも、自分の中に、実験を何としても止めなければと、そんな気持ちが強くなった。しかし、もし明日事故が起これば、放射能が大量に散布されるかもしれない。ここから遠ざかりたい、とも思う。激しい葛藤が始まった。ここから逃げたい。ここに集まった人たちは、みんな、そう思わないのだろうか?
――そう。みんな、明日実験が行なわれたらどうするか、なんて考えてやしないんだ。いま自分が叫ばなければ。実験を止めさせる。それだけしかないんだ。実験が行なわれたら、ではなく、一人ひとりが死ぬ気で、とにかく中止させようとしている。そのために自分の命がつきてもかまわない。
しかし、それはまた大きな間違いであることに気づいた。命がつきようとも、ではなく、この実験を中止させ、共にみんなで平和に暮らそう、なのである。
「原発なくてもええじゃないか」と叫ぶ、その言い方には、はじめ、他人ごとのように言うセリフだな、と思っていた。しかし、このセリフに、生きることへの力強さがこめられてると思い直した。恐ろしい実験を目の前にして、みんなで生きるんだ、と強く願う気持ち。爆発しそうな気持ちをこんなにやわらいで言っている。
一人ひとりがこんなに力強く自分の命ごと投げかけているのに、四国電力の人たちは、門にバリケードを作り、その数歩うしろで腕を組み、無表情に立っているだけ。そして次の日。12日。実験の日。ついに機動隊が出動。四国電力の人たちと同じ無表情で、私たちの前に立ちはだかる。
みんなで楽しく暮らしたいと叫んでいるのに、そんな、関係ないっていう顔はないでしょう。そんな顔しないでよ。3回くらい繰りかえしたら、悲しくなって泣けてきた。
午前9時、実験は開始された。みんなが、四国電力の前で放射能を浴び、死ぬというダイ・インをした。この日、愛媛県内、そして四国のお母さんたちは子供に学校を休ませ、他県に移動させたことを、四国電力の人たちはどう思っているのでしょう? 中学生や高校生の人たちが立ち上がり、「原発をなくして下さい」と言っていることを知って下さい。
いろんなことを思い、12日午後4時、四国電力をあとに長野に向かった。とにかく疲れた。みんなで共に楽しく平和に暮らそうとすることが、どうしてこんなに疲れなくてはいけないのか。悲しい気持ちでいっぱいである。
(第120号、1988年3月)

そして1988年4月24日に東京で開かれた「原発を止めよう一万人行動」は「二万人行動」にふくれあがる。

チェルノブイリから2年、全国二万人行動
「脱原発法」(仮称)制定運動を呼びかける

反原発全国集会88実行委員会事務局 佐伯昌和

一万人行動が、二万人行動になった。4月23日から24日、東京で開かれた「チェルノブイリから2年、いま全国から 原発を止めよう一万人行動」は、予想を上回る全国津々浦々の人びとの参加で、最後の銀座パレードの出発の際には、横断幕の「一万人行動」の文字が「二万人」に書き直されるに至ったのである。
行動は、23日午前中の省庁交渉からスタートした。通産省では「重要な事故については同型炉をもつ他の電力会社にも情報が伝えられるので、当該の電力会社でなくとも説明や資料の公開ができる」ことが確認され、厚生省は「規制値以下の汚染輸入食品についても、何らかの形でデータを公表するよう検討する」と答えた。消防庁では、核燃料輸送時の事故に対応する活動マニュアルが遅くとも6月にはまとめられることが明らかになった。
交渉の中身も、全体としては判で押したような答弁が多かったが、それよりひどかったのは、通産省周辺での異常警備である。地下鉄の出入り口から警官がピケットを張り、通産省のまわりは通行も許さないという構え。交渉団のメンバーも何度も警官隊にチェックされ(通産省だけに提出したはずの名簿を警察が持っていた!)、なかなか交渉の場にたどりつけない有り様だった。通産省前に集まり交渉団を激励しようとしていた1,500人の人びとは、力づくで日比谷公園の一角に封じ込められ、午後からの分散会に間に合うギリギリの時間まで、一歩も外に出ることを許されなかった。
しかし、それもこれも、私たちの行動のインパクトの大きさを、かえってよく示すものだったのかもしれない。そのことは、このかんの政府・電力業界の右往左往ぶりに、いっそう鮮明に見てとることができよう。
この日の午後の分散会は、各会場とも超満員で、合わせて約3,000人の参加者があった。関連企画も、いずれも活況を呈し、さまざまに行なわれた交流会も賑やかだった。

日比谷公園も外堀通りも反原発派が埋めつくした
翌24日は好天に恵まれ、開会の時刻よりずっと早くから、参加者が日比谷公園につめかけた。 この準備の段階でも警察のいやがらせは続いたが、午前11時、公会堂での集会、小音楽堂でのフェスティバルが予定通り同時に開会。両会場をつなぐ噴水前広場やにれのき広場にも、各地からの参加者が持ってきた横断幕が張られ、段ボール製の黄色いドラム缶に身を包む人、全面マスクに原発労働者の作業衣装の人など、思い思いの服装の人びとがあふれた。ロックの演奏や踊り、河内音頭や「じゃりんこチエ」の寸劇などが、各所で自由にくりひろげられた。
公会堂では、下北の老人に扮した松橋勇蔵さんと須藤舞弓さんの司会で、舞台一面にしつらえた日本地図をつかって凝った集会進行。原発をとめた地域、とめようと苦闘している地域の報告を、古川豪&ノビヤカス、館野公一さんの歌がつなぐ。小音楽堂では、平均年齢八歳の小中学生が自分たちでつくった劇を演じ、喜納昌吉さん、南こうせつさん、山本コウタローさんらの歌などと、各地からの報告が行なわれた。
参加者は、1時半の時点で2万人を超え、その人びとの熱気で「いまこそ、すべての原発をとめよう」という集会アピールを、両会場で採択した。さらに、「脱原発法(仮称)」の制定運動に向けた提起が、これも両会場でなされた。
銀座パレードは、先頭が出発してから最後の人が出発するまで2時間。日比谷公園から東京電力本社前、そして外堀通りを数寄屋橋、東京駅前から常盤橋公園まで、約3kmのパレードでは、親子づれや若者の姿が目立った。この日は、東京での行動に呼応して、岡山や高知、大分や奄美など各地での行動も行なわれたが、どこでも多くの、さまざまな顔ぶれの人が集まった。この日を前に、各地で開かれた行動また然りである。
今後さらに運動の輪をひろげ、必ずや「脱原発」を実現したい。
(第122号、1988年5月)

脱原発法制定運動の提起に、すぐに反応があった。

「脱原発法」制定へ、今すぐ五千万人署名の取り組みを

反原発蛍の連帯 福島敏明

原発とめよう二万人行動で提案された「脱原発法」(仮称)制定への取り組みについて、一刻も早くそれを開始すべきだと、私は考える。かねてより私たち「反原発蛍の連帯」も、国政を左右できる圧倒的多数の請願署名の実現を願いつつ、毎月約2,000戸のペースで5年間、反原発ビラの戸別配布を三重県下でつづけてきた。こうした全国の草の根の行動を、いまこそ具体的な反原発の力として結実させたい。
請願署名の目標数は、これまでのさまざまの署名よりもはるかに大きな数を目指すべきだ。三重県の熊野市では、全有権者の6割の請願署名を市議会に提出、議会を市民が包囲するなかで、原発拒否決議の確認を重ね、昨1987年9月には「原発抜きの地域活性化」を議会の満場一致で決議させた。国会に向けた請願署名では、日本の有権者の過半数である5,000万人を必要最小限と考えねばならない。そうでなくては、すべての国会議員一人ひとりに、原発反対の民意を圧倒的なものとして突きつけ、決断を迫る力とはなりえないだろう。
そのためには、チェルノブイリの事故によって明らかとなった“日本全国が原発現地”という認識を深め、これまで狭い意味での現地の人びとが原発を阻止すべく傾注してきたと同様の、いや、それ以上の情熱と努力を、日本中のいたるところで発揮することが要求される。機は熟している。地道に、しかし緊急に「脱原発法制定5,000万人請願署名」をスタートさせよう。
(第123号、1988年6月)

制定運動は1989年1月にスタートし、1990年4月の第一次、1991年4月の第二次を合わせて約330万人分という、5,000万人には遠く及ばないものの反原発の署名としては最多の請願署名を国会に提出した。しかしそれは、審議されることなく廃案とされてしまう。運動を提起した高木仁三郎さんにもまわりの私たちにも、いま考えれば信じられないくらい国会や議員への幻想があったと言わざるをえない。運動の挫折のなかで高木さんが鬱病にかかったこともあって、あいまいになってしまった「敗北宣言」は2000年12月10日、その年の10月8日に亡くなった高木さんを偲ぶ会で佐伯さんにより行なわれた。

地域からの新たな光――住民投票

それでも、脱原発社会を生み出すには、法律の制定が必要なことに変わりはない。福島第一原発事故後のいま、改めて実際に法律をつくることを可能とする新たな運動が問われている。「反原発」と比べて「脱原発」のほうがソフトに聞こえるが、現にある原発をなくし、原発社会から抜け出すにはむしろ、力ずくの強さとはまた違った、より強い運動が必要なのだ。
その前に、脱原発法制定運動は失敗したが、脱原発への気運はどっこい持続していた。1996年8月4日に実施された新潟県巻町(現・新潟市)の住民投票では、原発建設に反対する票が賛成票を圧倒し、けっきょく東北電力は2003年12月24日、安全審査にまで入っていた巻原発の計画を断念することとなる。

巻原発計画白紙撤回へ
東北電力が「断念」表明

原発のない住みよい巻町をつくる会 桑原正史

12月24日、東北電力が新潟県の平山知事に「巻原発計画を断念する」ことを伝えました。ついに、巻住民の前方に光が見えてきました。
経過の概要を説明します。巻町では「原発反対」の総意が示された住民投票のあとも、国や東北電力や町内の推進派が計画を推進する姿勢を示しつづけました。これではいつまでたっても問題が解決しないとみた笹口町長は、1999年8月に、1号炉の炉心予定地に隣接する町有地743平方メートルを原発反対派の町民23人に売却しました。ところが、推進派はこれを違法として2000年5月に新潟地裁に提訴しました。この裁判は2001年3月に新潟地裁で、2002年3月には東京高裁で「売却に違法性はない」という判決が示されました。推進派は上告受理を申し立てましたが、最高裁は2003年12月18日にこれを「受理しない」ことを決定しました。
これによって東北電力は、《炉心予定地に隣接する土地の取得=巻原発の建設》が不可能になりました。そのため計画推進にこだわってきた平山知事が、その日のうちに「巻原発計画は撤回すべきだ」と表明し、東北電力も24日に「計画を断念する」ことを知事に伝えたのです。
最高裁の結論を待っていたかのような知事と東北電力の対応は、経済産業省もふくめ、彼らがあらかじめ最高裁の判断を想定し、その後の方針を合意していたことを示しています。その意味をどう読み解くかはひとまずおくとして、すでに撤回が内定していたにもかかわらず、東北電力は12月12日の記者会見で、なお巻原発計画にこだわる姿勢を示しつづけました。最後の最後まで巻住民をあざむきつづけたと言わなければなりません。
それはともかく、《電源開発調整審議会認可・電源開発基本計画への組み入れ・原子炉設置許可申請書の提出》にまで進んだ巻原発計画が、どたん場のどたん場で声を出しはじめた「ふつうの市民」の力によって白紙撤回に至ったことの意味はきわめて大きいと思います。
夢を捨てることはありません。各現地で闘っているみなさん、住民は、いつも息をひそめて、みんなが参加できる運動を待っています。
(第310号、2004年1月)

事態が進んでもあきらめることなく、「ふつうの市民」が自らの意思で決定できる運動を提起しつづけてきた成果である。公開ヒアリング論争の際に巻の運動が強調した「決定権を住民に奪い返す」という考えが、ここに結実した。なお、住民投票の意義を、第223号で反原発ネットワーク豊橋の田中良明さんは、こう指摘している。

電力供給は国策でなく地域政策に
巻町の住民投票が示したもの

反原発ネットワーク豊橋 田中良明

8月4日に行なわれた新潟県巻町の住民投票は、住民投票の時代の幕を開いた。日本で問接民主制が機能不全に陥っていることは、間接民主制の担い手である政党に対する不信、低投票率、議会や首長の無能、堕落といったことに如実に示されている。間接民主制を絶対視して、住民投票を間接民主制の侵害として批判する人たちは、現実の間接民主制のこのような実態については口をつぐんでいる。
また、各地の原発立地反対運動が示すように、首長、議会がある決定をしたとしても、地域住民の相当部分がその実行にたいして断固として抵抗する場合には、決定の実行はいちじるしく困難である。首長や議会の決定といえども住民の強い抵抗があれば、容易には実行はできないのである。その程度には、すでに住民主権が実現しているのである。
間接民主制にもとづく意思決定と住民の実際の意思とが対立すると、一種の拮抗状態が生じる。そこでは住民投票が有効な解決方法となる。住民投票の必要性は、一般的な直接民主制の導入の要求としてではなく、このような現在の日本社会の状況のなかから浮かび上がってきたのである。そして、各地で住民投票条例の制定があり、巻町が実行第一号だったのである。
住民投票が一般化することは歓迎すべきことであるが、運動の側においてもそれに対応して覚悟と準備がいる。住民投票では負けることがあり、かつそれは少なくともその時点においては決定的な敗北を意味することになる。負けは負けとして受け入れたうえで、挫けずに運動を再構築していくことができる力量をたくわえておく必要がある。

原発問題は都市の問題
今回の住民投票と原発反対の勝利は、都市部での野放図な電力消費を「僻地」に原発をつくることによってまかなうという、これまでの電力需給の構図を突き崩した。電力業界のなかにも、受益側(都市)と被害側(原発立地点)との負担共有論が出はじめており、都市近郊での小型原発の建設構想(鷲見禎彦・関酉電力副社長——8月10日付毎日新聞)まで飛び出している。
原発問題はほんらい都市の間題であり、それがこれまで「僻地」に押しつけられてきた。これを都市に持ち帰ることは当然であるし、結構なことである。都市に持ち帰るとは、少し誇張していえば、都市住民に電力問題の解決方法として、〈都市型小型原発の建設〉と、〈省エネ+自然エネルギー〉のいずれを選択するかを迫ることを意味する。
そのような状況になれば、都市住民も電力間題を真剣に考えざるをえなくなるだろう。

原発国策論の破綻
今回の住民投票をめぐっては、エネルギー問題のような「国策」を一町の住民の意思で左右することの是非についても議論があった。
私の住む愛知県には、中部新空港、第二東名高速道路、リニア新幹線という三大プロジェクトとその起爆剤としての愛知万博という、計4つの国策および国策候補がある。いずれも少し内容を検討すれば、環境を破壊し、収支が償わず、かつ、別の簡便な施策で代替可能であることがわかる。国策とは、国の名を掲げて特定利益集団のために行なわれる施策のことにほかならない。隣りの岐阜県には、長良川河口堰という見事な実例もある。原発についても事情はまったく同じである。
さらに原発にはこれを国策としてはならない別の理由がある。
原発国策論は、論理的にも歴史的経緯からも、都市部での電力浪費を「僻地」に原発をつくることによってまかなうという電力需給構造を前提としている。この電力需給構造が行き詰まっていることは、電力会社すら認めはじめているのである。地域自立型の電力需給構造にするほうが、地域内の資源活用 (都市部では排熱の活用、農山漁村では自然エネルギーの活用)が促進され、長大な送電設備が不要になる。長大な送電網は電磁波公害の元凶であるし、阪神淡路大震災の例に見られるように大震災にたいして極めて弱い。安定性、安全性、環境保全といった社会的コストを加味すれば、地域自立型の電力需給構造のほうが低コストであろう。
電力供給を国策とすること自体がいまでは時代錯誤になりつつある。電力供給は国策ではなく、地域で決める地域政策にならねばならない。原発国策論は、破綻した集権的電力供給システムにたいする批判を封殺しようとする脅し文句でしかない。
間接民主制にしても、原発国策論にしても、現実を見れば通用しない議論であることは明白である。間接民主制が機能不全に陥り、原発国策論が成り立たなくなったところに、今回の巻町の住民投票と反原発の勝利があったのであり、絶対にその逆ではない。
(第223号、1996年10月)

住民投票は2001年、5月27日に新潟県刈羽村でプルサーマル実施をめぐって、11月18日には三重県海山町(現・紀北町)で原発新設をめぐっても行なわれ、いずれも反対多数となった。

全国のみなさん、ありがとうございました。
「プルサーマル」住民投票勝利報告

柏崎原発反対同盟・刈羽村を守る会 武本和幸

5月27日に投票が行なわれたプルサマール計画の是非を問う新潟県刈羽村の住民投票は、反対多数で勝利しました。6月1日、新潟県知事と柏崎市長、刈羽村長は会談して東京電力にMOX燃料の装荷先送りを要請、東京電力は先送りを決定しました。
住民投票の結果は、

反対 1925
保留  131
賛成 1533
無効  16

反対は、有効投票数に対して54%、有権者数に対して47%です。
世帯数は1,400余、東京電力とその関連企業関係者が380人、3.7世帯に1人が原発関係者という企業城下町で、村民は、国や東京電力の脅しをはねのけ、計画反対の意思表示をしました。
勝因は、JCO臨界事故や高浜MOX燃料製造記録の捏造事件、電源三法交付金事業ラピカの不正を村民みんなが知ってしまったことにあると思います。多くの村民は、プルサーマル推進もラピカ事件隠蔽も同じ経済産業省がやっていると考えています。
小さな村のプルサーマルNOの意思表示が、日本の原子力政策の根幹を揺るがしました。国や電力会社は、破綻した核燃料サイクル政策を転換しなければなりません。
東京電力社長は「理解活動が不十分だった。プルサーマルの必要性は変わりない。今後も地元の理解を求めていく。一部の人(刈羽村民)よりも、多数の人(首都圏の電力消費者)のためにやる必要がある」とコメントしました。政府もあらためて広報活動を強化しようとしています。
しかし刈羽村のプルサーマル論議は、1997年1月の計画発表以来4年を超え、この間住民は学習を重ねて、明確にNOと判断したのです。原発反対刈羽村を守る会は「刈羽村でのプルサーマル論議は終わった。これ以上プルサーマルの論議を続けるのは条例違反。国や東京電力はストーカーと同じだ」と声明を発表しました。
プルサーマルは原発所在地だけの間題ではありません。それぞれの思いを託して全国から寄せられた反対のメッセージを書いたハンカチは一万枚を超えました。プルサーマル賛成派からは「外人部隊が村を混乱させている」と批判されましたが、自らの問題として馳せ参じていただいた多くのみなさんとの共同事業で、住民投票で反対多数を実現できたことを心より嬉しく思います。
全国のみなさん、本当にありがとうございました。
(第279号、2001年6月)

心豊かな生活を子孫に
三重県海山町住民投票 反対票67・5%で圧勝!

脱原発ネットワークみやま事務局 岡村哲雄

11月18日、全国的に類をみない、立地計画がない中で原発誘致の賛否を問う「住民投票」が三重県海山町で行なわれ、投票率88.6%、誘致反対5,215票、誘致賛成2,512票と、有効投票の67.5%を占めた反対派の大勝利に終わった。住民投票条例の制定から投票までほぼ2ヵ月という短期決戦であったが、町民の良識が示された。
海山町商工会を中心とした賛成派は、泣き落としと業界ぐるみで強引に集めた原発誘致賛成署名者の維持・確保を目指し、戸別訪問を中心に運動を進めたが、運動が進むにつれ、よりどころであった個人の懐に協力金が入るとの嘘が住民にばれてしまった。不利を感じた賛成派からは、終盤になって誹誘中傷のチラシが多くなり、最後には、中部電力の電柱に大量に貼った賛成ポスターを反対派が破いたとの噂を組織的に流すなどして、町民のひんしゅくを買った。
私たちは、チラシで危険性を訴えることや街宣活動、学習会を地道に続けながら、町内全域への戸別訪問を繰り返した。日に日に反対の手応えは高くなり、投票日が最高潮に達したように感じられた。反対票が60%は越えるだろうと予想できたが、はるかに越えるうれしい誤算になった。
運動のターニングポイントはいくつかあった。立ち木トラスト、漁業者の立ち上がりなど、まるで一つのドラマを見るような感じであった。
私たちは、町を二分する骨肉の争いにならないようにと神経を使いつつ運動を進めた。反対グループは独自の活動を尊重しつつ、当初立ち上がった反対運動4団体に途中参加の漁師の3団体を加えて一年足らずの期間に30回以上もの連絡会を持った。時にはこの7団体が合同で講演会や決起集会を開催し、一枚岩ぶりを町民にアピールした。投票日の4日前に海山町中央公民館で行なった7団体合同の総決起集会は、町始まって以来の約1,400名もの人が入場し、町の反対ムードを一気に盛り上げた。
苦しい闘いに始まったが、カンパや講師の派遣、街宣活動、チラシ配り、それに終盤の戸別訪問活動までしていただいた県内外の反対グループの応援が、疲れた私たちに元気を与えてくれた。また、全国各地から、新聞折込みチラシの提供やカンパ、メッセージはがきなどがたくさん届き、運動に勢いをつけることができた。
原発に関する住民投票の新潟県巻町、刈羽村、海山町とつづく反対派の連勝は、今後の原発・エネルギー問題を考える上での一つの方向づけの一端になったのではないかと思う。後は、混乱した町をどう建て直していくのか、活性化をどう提言していくのか、残された課題は山ほどあるが、町民の総意で混乱を乗り越えていかなければと考えている。
今回の圧勝で、貧しくとも安全で心豊かな生活を子孫に残そうという海山町民の良識が、全国の皆様に示されたことが何よりもうれしい。応援してくださった、全国の皆さんありがとうございました。
(第285号、2001年12月)

住民投票での連勝、とりわけ安全審査に入ってしまった後での巻での勝利、「原発城下町」とされてしまった刈羽村での勝利を見れば、巻の桑原さんの「夢を捨てることはありません」と言う言葉が実感できるはずだ。自ら「あきらめない」ことこそ、地域の運動の原点だろう。
勝利でなく、チェルノブイリ原発事故後初の新規地点原発の営業運転入りをとめられなかった泊の報告を。

営業運転はされても
泊をとめたい、止められる!

岩内原発問題研究会 佐藤英行

6月22日、北海道電力は泊原発の営業運転入りを強行した。午後には全道労協などによる約1,000人の抗議集会が開催されたが、それに先立つ午前11時ごろ、堀株ゲート前で、岩内町の反原発住民運動グループ「ナナカマドの会」の女性6人が、“我が子を守ろう母の手で”と書かれた横断幕をもって抗議、さらに茶津ゲート前でも抗議の声を上げた。この行動に参加できなかった人たちのメッセージも、読みあげられた。その後、女性たちは泊村のなかをマイクで訴えて歩いた。前日になって急きょ決めたこの行動で、営業運転されても原発を止めたい、絶対に止められる――との確信が、いよいよ強くなったという。
25日の日曜には、岩内原発問題研究会など3団体の呼びかけで、全道の反原発住民グループが集まり、「原発は止められる! 思いっきり集まろう」現地集会が、雨・風の強い悪天候のなか、堀株ゲート前で開かれた。ゲートの5メートル前にバリケードと有刺鉄線が張られ、交通標識は駐停車禁止に変えてある。いずれも、22日にはなかったものだ。危険な有刺鉄線を撤去しようとした仲間を、ゲートの鉄扉の向こう側で北電の職員がカメラやビデオに撮っていた。
アンケートをつけて飛ばすための風船をふくらましているところに警察がきて、「北電さん、ちょっと」と露骨な慣れ合いぶりで北電の職員を呼んだ。そして「有刺鉄線を切った人がいれば、指でさして下さい」と北電と警察が一体となって仲間を逮捕した。原発の是非を公の場で対等に論じるというのではなく、力で圧殺したのは北電のあせりであり、原発は止められるという世論に恐怖しているあらわれだろう(不当に逮捕された仲間は、7月2日、私たちの抗議によって釈放された)。
その後、岩内町の住民会館で集会をもち、再度、堀株ゲート前に、子供連れも含めて300名が集まった。浜辺に色とりどりの抗議の旗やのぼりが風にたなびく。メッセージ風船を飛ばし、凧をあげ、営業運転・不当逮捕に抗議する行動を行なった。2時過ぎから岩内町内をデモ。ビラを配り手を振りながらの行進に、自分たちの意志をまったく無視されたなかで原発が運転されたことに対し憤りをもっている町民の共感が感じられた。
反対する住民を押しつぶして建設した伊達火力発電所の1号機は未だに使用していない。2号機も稼働率は10%そこそこであるという。この電気余りの現実のなかで泊原発の営業運転入りを強行したのは、原子力産業に利益をもたらし、住民運動を圧殺する意図からだろう。私たちはしかし、脱原発社会の実現を確信し、自らその社会をつくっていく決意をますます強めている。
(第136号、1989年7月)

そうした泊の運動を象徴するのが、斉藤武一さんが続けている温排水の水温測定だ。

水温観測30年の報告
泊原発の温排水の長期的影響

岩内原発問題研究会 斉藤武一

1978年3月、25歳のときから北海道岩内町の岩内港の防波堤(泊原発の対岸)で水温観測を始め、今年で55歳となり、当初の目標の30年に達した。
水温を変化させる要因は潮流や温暖化などたくさんあり、温排水の影響を解明することは不可能に近かった。その不可能の壁に、長年苦しんできた。しかし、気温と水温を比較することで可能となった。岩内と余市(岩内から北へ25キロ)の気温と水温を比較したのである。比較期間は1983年から2007年までの25年間。比較データは、気温、水温ともに年鑑平均値を用いた。
泊原発の稼働前と後を比較すると、岩内は水温が0.9度、気温が0.7度上昇し、余市は水温が0.5度、気温が0.9度上昇している。岩内のように、気温の上昇より水温の上昇のほうが上回るなど、考えられない現象だ。まずこれで温排水の影響が疑われる。
次に、累積平均の変化を調べた。年間平均値の合計を年数で割ると、累積平均が出る。気温では、岩内が高く余市が低くなっており、原発の稼働前後でその関係に変化は見られない。ところが水温では、原発の稼働前は岩内が余市より低かったが、1989年の1号機、1991年の2号機稼働後は1997年に余市に並び、2004年からは岩内が高くなってきた。岩内と余市の関係において、気温に変化がないのに、水温では逆転している。
さらに、1991年から余市の水温は一定を保っているのに対して、岩内の水温は階段を上がるように0.1度ずつ3段にわたって徐々に上昇している。泊原発の温排水による水温上昇分は、25年間で0.3度と結論づけた。これは、温排水が観測地点の4キロ先まで影響していることを意味し、北海道電力の予測した拡散範囲を超えている。ならば、原発を止めなければならなくなる。
3号機が2009年に運転を開始すれば、温排水は合計で150トンになり、岩内の水温はさらに上昇するであろう。それを解明するにはあと10年の観測が必要になり、観測40年が目標となった。
国や電力会社が、温排水の長期的な影響を無視して原発を運転していることは、地球破壊行為です。海を守らなければなりません。
(第362号、2008年5月)

敗訴から勝訴へ――司法を転換させる

さて、再び勝った話をしよう。『はんげんぱつ新聞』は、第一号が伊方原発裁判の一審敗訴報告でスタートし、以後も「国策」を堅持しようとする判決の報告が続いたが、いよいよ住民側を勝たせる判決も出るようになった。

高速増殖炉「もんじゅ」設置許可は無効
原子力政策の根幹揺るがす判決

「もんじゅ訴訟」原告団 小木曽美和子

「安全審査には重大な誤りがある」と、周辺住民が国を相手に訴えた高速増殖炉「もんじゅ」の設置許可処分無効確認訴訟で、名古屋高裁金沢支部は1月27日、一審判決(福井地裁、2000年3月22日)を破棄し、許可処分の無効を言い渡した。
国の主張を丸呑みした一審判決とは対象的に、控訴審は、国の主張をことごとく退け、完全な逆転判決となった。論旨はわかりやすく、明快で説得力のある市民感覚にあふれ、深い見識を示した判決であると、原告団は高く評価している。
提訴から17年半をかけた原告完全勝訴の判決は、国の原子力長期計画の根幹を揺るがす内容であり、衝撃を受けた国はとりあえず上告し、論戦は最高裁に移った。

■わかりやすい判決
判決の流れは、次の通り。
まず、「もんじゅ」が、いまだ研究開発段階の原子炉で、実績、技術、知見などが不十分であり、審査すべき「基本設計の安全性に関わる事項」は、軽水炉と比較して広範囲になることはやむをえない、とした。
そして、現在の知見に照らし①原子力安全委員会の調査審議で用いられた具体的安全審査基準に不合理な点があること、または②調査審議、判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、それが重大である場合は、設置許可は無効である。さらに、安全審査に重大な違法があるとすれば、その原子炉は周辺住民に重大な脅威となり、常に潜在的危険性によって人問の生存そのものが脅かされるのであるから、違法の明白性は必要ないとした。
判例の多くは、取り消し訴訟では違法性があれば取り消しが認められるが、無効確認訴訟では違法性が重大で明白であることが必要だとしている。国側は、明白性を欠く判例違反を上告理由に争う方針のようだ。

■安全審査に重大な誤り
判決は、安全審査の「2次冷却材漏洩事故」「蒸気発生器伝熱管破損事故」「炉心崩壊事故」について、調査審議、判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、重大な誤りの結果、原子炉格納容器内の放射性物質が環境に放出される具体的危険性を否定することができないと判断し、それぞれ詳細な検討を行なっている。

ナトリウムによる腐食現象の知見を欠く
①想定した事故を上回る事故を起こしたナトリウム漏洩事故(1995年12月8日)で、ナトリウムとコンクリートの接触を防止するために敷設された床ライナが、ナトリウムによって腐食し、条件次第で床に穴があき、ナトリウムとコンクリートとが直接接触する場合がありうること、②事故後に行なわれた燃焼実験Ⅰ、Ⅱでナトリウムが漏洩した時の床ライナの温度は設計温度をはるかに超え、床ライナの健全性が評価されていないこと、③腐食現象をまったく考慮していなかったこと、④三系統に分離独立している2次主冷却系設備は、一つの系統で本格的なナトリウム―コンクリート反応が起これば、系統分離が破壊され、すべてが機能不全に陥る可能性は否定できない。

高温ラプチャー対策を無視
蒸気発生器伝熱管破損事故としてイギリスの高速増殖炉PFRで40本の伝熱管が瞬時に破断する事故があり、動燃(当時、現・核燃料サイクル開発機構)のSWAT・3試験やドイツのインターアトム社の実験で高温ラプチャーが発生していた。
「もんじゅ」の審査では、起こりえないとして審査せず、水漏洩の早期検出と水、蒸気の急速ブローによって破損事故の拡大を防止できるとしている。しかし、安全評価審査指針が定めた「単一故障」を仮定しておらず、急速ブロー系の故障を仮定すれば、高温ラプチャーの発生の可能性は否定できない。

動燃の解析を鵜呑みにした炉心崩壊事故
炉心を流れる冷却材の流量が一気に減少し、同時に制御棒の挿入に失敗した時に起こる現象(ULOF)についての安全解析で、安全審査は炉心損傷後の機械的エネルギーの評価を申請どおりの最大380メガジュールで妥当とした。動燃が行なった解析の中には最大992メガジュールのケースも複数含まれていたが、それは報告されていなかった。
また、その頃には既に、炉心溶融が徐々に進行し、溶融した全炉心が沸騰・揺動して再臨界に至り最大級のエネルギーを発生させるケースの重要性が認識されていたのに、評価された形跡はまったくない。

■改造工事は凍結を
判決は、以上の3つの争点に限っても、原子力安全委員会は、動燃の解析に不備または誤りがあると補正を求めたことは一度もなく、無責任で、審査の放棄に等しい判断をした、と厳しく断罪している。
けっきょく安全審査は全面的なやり直しが必要だ、と判決は断定した。
「もんじゅ」は、変更許可が出ているものの、工事着工には地元の了解が必要だ。判決を受け、福井県内では、判決確定までは凍結すべきだとの声が大きい。
(第299号、2003年2月)

志賀原発2号機に運転差止め判決
金沢地裁前は拍手と万歳の渦

能登原発差止め訴訟原告団 多名賀哲也

3月24日朝10時すぎ、石川県金沢市の金沢地裁玄関前に中村雅代弁護士の小柄な姿が現われた。笑っている、「勝訴」の幕を掲げてる! 原発差止めを求める民事訴訟で初めて住民側が勝ったのだ! 1999年8月の提訴から6年半、88年12月の1機差止め提訴から17年余。破綻した国策に初めて、青史に恥じぬ判決が井戸謙一裁判長によって下された。
殺到する報道陣に心境を問われ、「心にかかる雲なし。この日を迎えることなく亡くなられた赤住の橋さん、富来の川辺さん、沖崎さん、市川さん、富山の埴野さん、山本さん、弁護団長の田中さんらに伝えたい」と夢中で答える。柄にもなく涙がにじむ。判決の言い渡しが終わり退廷してきた原告らが「勝訴」の幕を囲み、拍手と万歳の渦が起こる。
主文「被告は志賀原発2号機を動かしてはならない」―判決は、「被告による耐震設計には、①直下地震の想定が小規模にすぎる②考慮すべき邑知潟(おうちがた)断層帯による地震を考慮していない。③原発敷地での地震動を想定する手法である『大崎の方法』に妥当性がない等の問題点があり、被告の想定を超えた地震動によって本件原発に事故が起こり、原告らが被ばくをする具体的可能性がある」と認め、「原告らは地震による原発の危険性を相当程度立証した」のに、「北陸電力側の反証は成功していない」と断定。原告の差止め請求を認めた。
判決には仮執行宣言がないため、北電は運転を継続し、27日には名古屋高裁金沢支部に控訴した。しかし、司法が原発の耐震設計指針の問題点に正面から踏み込み、原発震災の現実性を明言して、原発の運転停止を命じたのは画期的である。指針はすべての原発に共通するものであり、安全審査の根幹に関わるだけに、本判決の及ぼす影響は極めて大きい。
地裁前の北陸会館で、記者会見と報告集会。岩淵正明弁護団事務局長が判決の説明と評価を行ない、堂下健一原告団代表が声明を読み上げる。終了後、原告団は直ちに富山の北電本社へ向かい、2号機の即時運転中止と判決受け入れを申し入れた。
昨年4月1日には、羽咋市内の送電幹線鉄塔が地滑りで倒壊して能登全域が大停電し、1号機も20日以上停止した。北電の地質調査のお粗末さは露呈している。巨大原発22号機が完全な余剰施設であり、経営方針が破綻していることも、司法ですら指摘した。北電には、これらへの反省見られない。
運転を継続するばかりか、プルサーマル計画を推進するなど、許されることではない。プルサーマル計画中止と志賀原発停止を求め、さらに運動を広げていきたい。
(第337号、2006年4月)

残念ながら両判決とも上級審で逆転され、結果的に敗訴が確定している。とはいえ、こうした判決が出たこと自体、電力の供給上原発は不可欠という迷信に裁判官たちがだまされなくなってきていることを示していよう。その背景には、たとえば2002年8月に東京電力のトラブル隠しが発覚し、2003年四4月15日には同電力の原発17基すべてが停止(順次再開)するという事態になっても停電にならなかったことなどがあるのだろう。

電力の安定供給をおびやかす原発
同時多基停止で明らかになったこと

きのこの会 中川徹

日本の電力事情に新たな現実がつきつけられている。それは、電力供給の安定性を根本からおびやかしかねない要因を、原子力発電がかかえているという側面である。中部電力は現在、保有する原発四基がすべて停止中という”異常”な事態の中にある。1号炉が昨年11月に世界で初めてという配管の水素爆裂事故を起こし停止して以降、調査のため停止した2号炉が今年5月、運転再開を強行した直後の水漏れ事故で、4号炉が9月に定期検査入りで、さらに同月、東京電力の事故隠し発覚のあおりで3号炉に未報告未修理の「ひび割れ」が存在することがわかり緊急停止と、たちまちのうちに4基すべてが停止してしまう事態となってしまった。
中電は、原発の全基停止という事態は何としても防ぎたかったにちがいない。もちろん電力不足を心配してではなく、原発なしで何の不都合も起きない事実を白日のもとにさらしたくないという理由で。しかし去年の1号炉の事故以降、静岡県をはじめ県内の31の市・町が、国や中電に対して安全対策や事故原因の徹底究明を求めて意見書の提出や決議をしており、中でも原発周辺の小笠町、榛原町など5町と三島市は、1、2号炉の廃炉を求める意見書の採択や決議をしている。とても運転を継続できる状況ではなかった。運転の再開についても同様で、4号炉の定期検査は、去年は5月13日から6月10日までと発電再開まで1ヵ月を要していないが、今年9月4日に始まった定検では、2ヵ月後の今も動かせていない。
東京電力でも、8月29日の事故隠し発表以来、点検のため福島第一原発4号炉、福島第二原発2、3、4号炉、柏崎刈羽原発1号炉の5基を次々に停止、福島第一原発3号炉、柏崎刈羽原発2、3号炉の3基は定検で停止中だ。さらに原子炉格納容器の気密性試験のデータ不正を行なった福島第一1号炉に対し、原子力安全・保安院が一年間の運転停止命令の方針を決めた同じ10月25日、東電は自主点検のためとして同炉を停止した。けっきょく東電は自社の原発17基のうち9基(出力863万kW)を停止するという事態に至っている。これは北海道電力の今年7月現在の全設備容量660万kW、北陸電力の同676万kW、四国電力の同688万kWよりはるかに大きい。
停止原発は、今後さらに増えそうだ。

最大電力時だったら

今回の原発運転の同時多基停止で明らかになったことを考えてみる。まず中電に関して、真夏の最大電力時(電力需要が最大の時)でも、原発なしで電気の供給に何の支障もないという事実。もとより各種データを見れば、このようなことは明白ではあったが、それをリアルに示した。
一方、東電については、最大電力時には、自社設備では足りず、受電でしのいでいるのが現実だ。電源開発、日本原子力発電、自治体の発電所、他の電力会社などからの受電である。原発をすべて停止すれば東電の場合、夏を乗り切れないことになる(実際には中電も、他社からの受電をしている。それには、電気を買ってもらう側の事情もある)。
明確なことは、電力の安定供給にとって原発は非常なマイナス要因だという事実である。今回の事態が真夏の電力需要のピーク時に発生すれば、無理をしてでも運転を強行しなければならず、安全と両立しない。コスト低減圧力の現況下では、さらに安全運転とかけ離れる。現下の企業倫理凋落の中で、信頼失墜の電力会社。10月はじめの支店長会議で中電の太田会長は、「原子力の今後の方向は予断を許さない面もある」と危機感をつのらせた。東電管内でも、今回の事態に対して多くの自治体が抗議をしている。
大事故が発生すれば、原発の運転継続は困難となろう。そうではなくても、安全面に配慮の必要な原発は共振効果が大きく、不安定要因をかかえている。電源政策の変更にすぐ着手する必要が、この面からもはっきりしてきた。
(第296号、2002年11月)

ちなみに2011年のいまでは、8月の需要ピーク時に全国の原発の4分の3が止まっていて、同月末には5分の4が止まった。それでも停電は起きていない。定期検査後や事故停止後の運転再開に今後もブレーキがかかり続ければ事実上の脱原発だが、もちろん、そのまま永遠にというわけにはいかない。しかし、脱原発に向けた法律の制定を考えるとき、現に原発がなくても困らない実績は大きな意味を持つ。法制定の条件は、整いつつあると言えそうだ。

最後の新設計画――上関原発反対運動

原発新設計画は、次々と白紙撤回されてきた。唯一残っているのが山口県上関町の上関原発計画だ。これを止めれば、以後の新設計画はありえないとして、全国的な連帯のもとに反対運動がすすめられている。

上関原発計画地では今

原発はごめんだヒロシマ市民の会 溝田一成

上関原発の計画が発表されて、反対運動の闘いは28年になります。建設計画を強引に進める中国電力は、多くの反対の声を無視し、多額の金のばらまきと強い権力を使い、上関町民を真二つに分断してきました。
しかし、予定地の正面に住む祝島の人たちの約9割は「原発絶対反対」の強い意志で「海は売らない」「自然を残したい」と、漁業補償金の受け取りを拒否し続けています。中国電力が原発建設のために当初取得したいとしていた185万㎡の土地の約20%は反対派のものです。
原子力発電所を建設するためには、敷地51万㎡のうちの海面14万㎡を埋め立てなければ成らず、山口県に公有水面埋立申請を行ないました。「住みやすさ日本一」を標榜する二井関成山口県知事ですが、多くの人たちの「海を埋め立てないで」という声に応えることなく、埋め立て許可を2008年10月に行ないました。
知事が埋め立て着手の期限としていた昨年10月22日が迫った9月10日、上関町の隣り町平生町(ひらおちょう)田名(たな)埠頭(ふとう)で埋め立てを着手させない闘いが始まりました。埠頭の広場に置かれた灯浮標(ブイ)を運び出させない阻止行動です。埋め立てられれば生活が破壊されると、命がけで反対する祝島の人たち、瀬戸内海の自然を守ろうとするシーカヤックの人たちを中心に、支援の輪は周辺の人、全国の人たちに広がっていきました。
しかし、中国電力は灯浮標9基のうち2基を他の場所から運び、騙し討ち的に予定海域に運び込み、その後同様に残る7基も設置してしまいました。そのため、埋め立て阻止の闘いは原発建設予定地の上関町長島の田ノ浦に移りました。現地での抗議・監視行動が続く中、昨年12月18日に中国電力は1号機の「原子炉設置許可申請」を経済産業省に提出しました。
反対派は新しく監視小屋を建設し、また24時間体体制で埋め立てをさせない監視行動を続けています。以前に建設されたログハウスや監視小屋は、原子炉が設置されようとしている場所から280~300mの範囲にあり、4人の人が住民票を登録し生活しています。
現在、若い人たちに上関原発反対の輪が大きく広がってきていますし、今でも、埋め立て作業はまったくできていません。それに焦った埋め立て準備の工事を請け負った土建業者などを中心に、5月16日には「上関原発推進総決起大会」を行ない、シーカヤックカーたちを追い出せと言ったり、中国電力への不満の声も出たようです。
この3月31日、中国電力の島根原発で前代未聞の「点検漏れ」事件が明らかになりました。この事件を受けて「中国電力に原子力発電を運転する資格があるのか! 上関原発を建設すべきでない!」という意見が多く寄せられています。上関原発は必ず中止できるとの確信を持って、さまざまな形での反対運動を取り組んでいます。
(第388号、2010年7月)

生物多様性のホットスポット 上関

長島の自然を守る会 高島美登里

上関原発計画予定地である山口県上関町の長島やその周辺地域は“生物多様性のホットスポット”と呼ばれ、瀬戸内海の健全で貴重な生態系を最後に残しています。代表的なものとして、国際自然保護連合指定の絶滅危惧種で、日本にしか生息せず、生息総数も5,000羽程度といわれているカンムリウミスズメが世界で唯一、1年を通して生息する場所です。最近の長島の自然を守る会の調査では繁殖地の可能性も出てきました。
また、オオミズナギドリの世界初の内海繁殖地でもあり、貝類の進化の分岐点にあるヤシマイシン近似種の繁殖地、世界で1個体しか確認されていないナガシマツボの産地でもあります。そして他の地域では絶滅あるいは絶滅に瀕している生物がここでは健全に生息しています。鳥類のカラスバト、ハヤブサ、ウミスズメ、水生哺乳類のスナメリ、原索動物のナメクジウオなどです。
1999年4月に中国電力は、環境影響評価準備書を提出しました。提出された準備書には、スナメリ、ナメクジウオなど貴重な動植物が見落とされ、生態系の調査及び正当な評価がなされていません。その後も、長島の自然を守る会や共同調査を行なっている研究者によってカラスバト、カンムリウミスズメなどの生息が確認され、追加調査を余儀なくされています。
許可権限を有するはずの経済産業省、環境省、文化庁、山口県は、追加調査を指示するだけで事業者任せの対応に終始しています。日本生態学会、日本ベントス学会、日本鳥学会は①上関周辺海域の環境保全には格段の配慮が必要であること②原子力発電所の建設は、海の生態系に対して、単純な海域埋め立てよりも、はるかに大きな影響を及ぼすこと③上関は、半閉鎖的でかつきわめて生物生産力の高い内海に位置するので、この問題がいっそう慎重に検討されねばならないことを指摘し、合同で「①上関原子力発電所建設計画に係わる海域埋め立て工事を一時中断すること。②3学会から提出された要望書の内容に沿った適正な調査を実施すること」という要望書を提出しました。3学会が合同で要望書を出すのは日本で初めての例です。
しかし、事業者及び行政側は「アセスは確定した」と過去形の認識にとどまっています。現在、アセス法見直しが国会で論議され、その過程で上関の問題も取り上げられています。見直されたアセス法を遡及させることの成否が埋立てや建設中止の鍵を握っているといっても過言ではありません。
山口県は2008年10月22日に公有水面埋立許可を出しました。原子炉設置許可も出されていない段階で、環境保全についても、ずさんなアセスメントの引き写しです。長島の自然を守る会・祝島島民の会・祝島島民・全国の自然を愛する人たちは、人と生き物の生きる権利の名において「上関自然の権利訴訟」を提訴し、公有水面埋立免許の取消しを求めて闘っています。
そして、予定地対岸の祝島では豊かな自然の恵みを生かした1本釣り中心の漁業、ビワに代表される農業、酪農など将来に向けて持続可能な生活が営まれています。まさに国際生物多様性年のモデルとして日本が世界に誇るべき地域です。上関周辺地域の環境保全が国家戦略の中に明確に位置づけられるよう、国際世論を巻き起こし、環境保護の面からも上関原発計画を中止させるようがんばります。
(同上号)

福島第一原発事故を受けて2011年6月27日、二井関成山口県知事は県議会で、海面埋め立て免許の更新を「現状では認めない」と表明した。実際に認めないこととなれば、計画は頓挫する。
一足先に白紙撤回を勝ち取った芦浜の経験を伝える集会も行なわれた。

芦浜原発計画白紙撤回10周年の三重県で
「上関原発計画反対!がんばれ祝島」の集会

津支局 冨田正史

上関原発計画に反対して闘っている祝島の人々を応援して、全国各地を回っている広河隆一さんの講演会が、2月13日・14日と、静岡・三重・愛知で連続して行なわれました。三重県津市では2月14日、「上関原発反対!がんばれ祝島・三重集会」が開催され、130人が参加しました。
「原発の歴史は、国・電力会社などが都合の悪い真実を隠し続けてきた歴史だ」「原発、戦争、女性への暴力など命にかかわることが私のテーマだ」。チェルノブイリ、もんじゅなどの原発や祝島の人々の闘いを撮影した写真を見ながら、原発や戦争、そして運動の現場を撮り続けているフォトジャーナリスト・広河さんのお話を聞きました。
続いて「芦浜原発計画が中止になるまで」と題して、建設計画地・芦浜のある南島町(現・南伊勢町)の大石琢照さんから、反対運動の話を聞きました。中部電力に芦浜原発を白紙撤回させてから、2月22日で10周年を迎えました。有権者の過半数を集めた県民署名が白紙撤回の大きな原動力となりましたが、大石さんはその実行委員長でした。
集会は、チェルノブイリ救援活動、反原発運動にかかわってきた人などでつくる実行委員会が主催しましたが、実行委員には、芦浜も、チェルノブイリも「歴史」としてしか知らない若い人も加わりました。3月中旬には、若い人たちが集会で採択された「集会宣言」をもって、祝島を訪れる予定です。
この集会を、芦浜・熊野など原発計画をすべて止めてきた三重の運動の経験を全国の運動とつなぎ、そして若い世代につなげていく出発点にしていきたいと思います。
(第384号、2010年3月)

芦浜の運動から上関の運動へ、そしてまた、上関の運動からの連係も生まれている。上関の運動では、高島さんの報告にあるように、環境・生物多様性を守る運動との結合が大きな力を発揮した。それは、九州電力川内原発三号機の増設反対運動などにもつながっていく。川内では、もともとから問題にしていた温排水を焦点とするやや違った形が中心とはいえ、これまでの反原発運動では必ずしも重視してこなかった環境影響調査を争点に運動を組み立てている。

プルサーマル――原発延命のツケと闘う

新設が進まないツケは、福島の石丸さんの報告にあったように、既設地にまわされる。
各原発で発生する使用済み燃料は、もともとの計画では再処理工場に送られ、そこで取り出されたプルトニウムは高速増殖炉で利用されるはずだった。つまり原発の地元からは出て行くのみだった。ところが、高速増殖炉の開発が頓挫し、そのツケが原発既設地にまわされた。プルトニウムがプルサーマル用のMOX燃料となって地元に戻ってくるのである。プルサーマルが行なわれた後の使用済み燃料は、さしあたり出て行く先がない。ウラン燃料より高熱で放射能量が多く、プルトニウムやTRU(超ウラン核種)を余分にふくむ、よりやっかいな使用済み燃料として原発内の貯蔵プールに残りつづけることとなる。
そんなプルサーマルが、2009年11月5日の初臨界から玄海3号機ではじまった。ごくわずかのMOX燃料を使って実施された小規模試験から一足飛びに、しかも20年のブランクをおいての商業運転である。おまけに、MOX燃料を製造した仏メロックス社の安全意識の低さと、発注元である日本の電力各社の品質管理能力の欠如が8月19日、高浜3、4号用燃料ペレットの不良品問題として露呈した中で、それは強引に開始された。

私たちは、あきらめません。
玄海原発プルサーマル裁判闘争にご支援を!

玄海原発プルサーマル裁判準備会 石丸初美
プルサーマルは始まってしまいました。関西電力の自主検査において不合格となった、メロックス社製のMOX燃料と同じレベルのものが、玄海原発プルサーマルで使用されている可能性があります。今まさに原子炉内で燃やされているのです。
私たちはこれまで一貫して、九州電力はもとより、佐賀県、国に対しても、プルサーマルに関するさまざまな危険性についての説明を求めてきました。要望書、直接交渉、説明会。考えられるあらゆる手段を使って。プルサーマル発電の、まさに核となるMOX燃料に至っては、よりいっそう深く。
しかし、納得のいく説明も、データの開示もないままに、まさに出し抜けのGOサインでした。安全性は確認された、の一点張り。九電のMOX燃料には、安全に関わる基準の数値はなかったのではないですか?しかもその数値は、通常ウラン燃料の場合より、安全性において厳格化されるよりむしろ緩和されているのではなかったですか? 私たちの落胆と憤りの大きさは、計り知れません。
もんじゅの再開容認。頻発する燃料棒からの放射能漏洩事故。国や電力会社は、何を焦っているのか、安全が蔑ろにされていると思えてなりません。そして、玄海と同じように、市民の声を黙殺する形で進みつつある伊方のプルサーマル。私たちは、その足下に生きているのです。何故見えないのですか、何故聞こえないのですか。
大きな力を持つ電力会社や行政に、一般の市民を無力感の底に突き落とすような横暴が、容認されて良いのでしょうか。NOです。事ここに及んで、玄海原発プルサーマルを止めさせるためにできることは何か。私たちは、粛々と、裁判を選択しました。唐突にではなくこれまでの運動の自然な帰結として。
私たちは、ただの市民です。何の力も、何の専門知識も持ち合わせない、あたりまえの生活者です。そんな私たちが、切実にNOを訴える。ここにこそ本当の意味での裁判の役割があるのだと考えます。多くの方々の協力で、ようやくここまで辿り着くことができました。
殊更に正義を振りかざすつもりはありません。取り戻したいだけです。プルサーマルといういたずらに危険と不安を増幅させる、得体の知れないものがなかった頃の生活を。
私たちの抱いている不安を払拭してもらいたいのです。私たちの、掛け替えのない生活を守るため、裁判に訴えます。もう既に、私たちだけの問題ではなくなりました。使用済み核廃棄物は、将来においても処理できる見通しは立っていません。どうか、自分の問題としてもう一度考えていただいて、共感して頂ければとても嬉しく思います。
そしてこれから、世界中で市民がNOの声を上げることを願いつつ、この運動へのご支援を切にお願いいたします。一緒に闘いましょう。
(第384号、2010年3月)

福島原発事故――「廃炉の時代」へ

新設が進まないツケは、既設原発の寿命延長にもまわされた。日本原子力発電敦賀原発1号機、関西電力美浜原発1号機に続いて東京電力の福島第一原発1号機も、営業運転開始から40年を超えて運転が続けられることとされた。40年目の日が2011年3月26日。事故は、その15日前に起きた。

福島原発
廃炉の始まり

脱原発福島ネットワーク 佐藤和良

3月11日、マグニチュード9.0の巨大地震、巨大津波、そして原発震災が発生しました。東京電力福島第一原発における外部電源及び非常用電源の喪失に伴う冷却材喪失に対する東京電力の初期対応の失敗によって、水素爆発、炉心溶融が引き起こされ、大量の放射性物質を大気中に放出し、多くの住民が避難を余儀なくされました。未曾有の危機がなお続いています。
東京電力の勝俣会長が福島第一原子力発電所1~4号機の廃炉に渋々言及しました。しかしいま、日本の姿、日本の原子力行政とエネルギー政策のあり方・方向性が問われており、国は、原発震災の被災住民の原状回復と被害補償はもとより、福島第一・第二原発すべての廃止と脱原子力のエネルギー転換こそ決断しなければなりません。
今日まで東京電力はじめ原子力安全・保安院からの事故情報や放射線情報の公開が適切に実施されていないことは明らかです。また、「ただちに健康に影響を与えるものではない」とする政府・一部学者・マスコミの宣伝によって、日本国民は「ヒバクシャ」にされようとしています。
福島県内では小中学校などの入学式、始業式が4月6日に実施されることが、公表され、児童生徒を持つ保護者やPTA役員など市民から不安の声が 上がっています。放射線被曝から児童生徒を守るため、事故が収束に向かうまで当面休校し、教職員、保護者を含めて児童生徒の放射線防護について指導徹底するとともに、放射線検知器の導入による各学校の線量モニターなどにより、放射線防護を徹底することが求められています。
こうした中で、4月4日、脱原発福島ネットワークと子力資料情報室の呼びかけにより、ふるさとを追われた大熊町住民をはじめ福島県民、各地の代表が、内閣総理大臣と経済産業大臣宛に253の団体賛同と1,010名の個人賛同を添えて「福島原発震災に関する緊急要請書」を提出しました。
脱原発福島ネットワークは、福島第一原子力発電所の冷却機能の確保は当然であり、冷却機能の回復作業中も大気中に放射性物質が拡散しているため、安全論を振りまくのではなく、児童生徒はじめ市民の放射線防護を同時に進めるべきであることを強く求めました。また、福島県民が求める放射能被害に対する個人補償、福島第一・第二原発10基の廃炉を、国の方針として速やかに決定すべきであることを強調しました。
(第397号、2011年4月)

3月26日、40年超運転原発の廃炉を求めて「ハイロアクション福島原発40年」をスタートさせようとしていた実行委員会のうのさえこさんは訴える。

放射能のリスクから最大限の防護を
皆様のご協力をお願いいたします。

ハイロアクション福島原発40年実行委員会 うのさえこ

ハイロアクションの記事を希望をこめて書き送ってから1ヵ月、予想を超えた速さと厳しさで私たちは「廃炉の時代」に投げ込まれました。これまで脱原発運動が警鐘を鳴らしてきたことがそのまま現実となってしまったこと、本当に悔しいです。
今、福島原発で進行している危機とあわせて、もうひとつの危機が進行中です。「復興」に希望を見出したいという福島の人々の当然の気持ち、それを応援したい人々の善意が、国や県やマスコミによるまやかしの安全大合唱によって、からめとられようとしています。人々が進行中の未曾有の放射能汚染の現実から目をそらし、「風評被害」と闘うことによって、私たちの健康と未来が危険に晒され続けるという事態は、絶対に許されません。
ハイロアクションは、3月25日、10府県で緊急声明を発表し、福島の現状、妊婦と子どもの避難、避難区域の拡大、被曝から身を守るための情報の必要などを訴えました。そして緊急行動として、放射能のリスクから最大限防護するための活動を始めました。障がい者など社会的弱者を対象とした支援のほか、県内各地での線量測定、教育委員会への働きかけと記者会見を行ない、県が小中学校での放射線測定を実施するなどの成果を得ました。今後も、子ども・妊婦の一刻も早い避難を促すとともに、放射線量測定の継続、放射線防護のためのマニュアル作成と配布、子どものマスク着用の徹底のための働きかけなどを展開していきます。測定器購入ほか活動資金を急募いたします。皆様のご協力をお願いいたします。
人間の勇気と叡智を信じます。進むべき方向は見定まっています。この激流の中、どうか手をしっかりと握り合い、前に進みましょう。
(同上号)

福島第一原発では、『はんげんぱつ新聞』創刊の翌1979年10月24日、6号機が運転を開始して全基稼働となった。第19号に地元の双葉地方原発反対同盟と、隣接する浪江・小高原発計画地の三反対同盟の共同声明を載せている。

東京電力第一原発全基稼働に伴う声明

双葉地方原発反対同盟
棚塩原発反対同盟
北棚塩原発反対同盟
小高原発反対同盟

アメリカのスリーマイル島原発の大事故は、全世界に大きな衝撃を与えた。
ところが我国推進側は、論理的にも実証的にも瓦解した安全性の神話に更にすがりつき、東京電力は遂に第一原発6号機の超大型110万kWを稼働させ、この狭隘なところに計6基、469万6,000kWの総出力となり日本では勿論、世界にも類のない原発集中地となった。
このことはとりも直さず、私たちは生存の危機を最も抱えた世界唯一の住民にさせられてしまったことを意味している。私たち住民は常に背中にナイフをつきつけられながら生きることを強いられてしまった。
“原発ができれば双葉は開発され、住民の生活は大きく向上する、原発は安全だ”等々良いことづくめで宣伝し自治体を籠絡し、地域住民の口を封じてきた。しかし原発で開発され、住み良くなるはずの双葉郡はその宣伝とは裏腹に、税金も高騰傾向にあるばかりか、地価、家賃、野菜等の食料品も高騰して勤労住民の生活を圧迫してきている。更にクリーンで安全な原発という鳴りもの入りの看板は、いまや汚れた欠陥原発としての名声を高めてきている。設置段階における諸々の説明は結局、偽りのものでしかなかったことをこの14年の歴史が事実として証明している。
松葉からのコバルト60の検出により判明した環境汚染はその範囲を拡大し、いまは海洋にまで及び魚貝類への深刻な影響は既に時間の問題となっている。労働者被曝は全国一の実績であり、各種癌、白血病による死亡者の発生となっている。
私たちはこの間、この原発の危険性を指摘し傷だらけの欠陥原子炉の即時運転停止、総点検、再審査を要求してきたが、東京電力は私たちの要求を無視し、まさに手負いの猪そのものの姿で運転を強行し、完全に住民の安全を無視してきたのである。その結果、原子炉本体のヒビ割れを起こし、住民に極度の不安を与えた。しかも事故資料を求めた私たちに、東電は遂に一片の資料も示さなかった。
ひと粒の豊穣な土もこの地の祖先の丹精によりつくり続けられたのであり、その心が成した歴史と伝統が平和な地域共同体を形成してきた。およそ、平和郷であるこの地を破壊し、生命の尊厳を浸食し且つ否定するものを私たちは断じて許すことはできない。
1979年10月26日
(第19号、1979年11月)

そして第398号で、『はんげんぱつ新聞』は、全国各地のさまざまな団体と共同で以下の声明を発した。

福島第一原発大事故にかかる共同声明
チェルノブイリ原発事故から25年の日に

3月11日の東日本大震災・大津波に端を発した福島第一原発大事故は、日本ばかりでなく世界を放射線ヒバク・放射能汚染の恐怖に晒しています。
日本の原発は絶対安全、大事故は起こらないと豪語してきた日本政府と電力会社、御用学者の責任は重大です。大地震・津波の危険性、電源喪失事故、集中立地の危険性、大事故が起こった時の決死隊の問題、10キロ圏内のみの防災対策の問題点等々、現在進行形の事態を多くの人が古くから指摘してきました。にもかかわらず、それらを真剣に受けとめることなく、ただただ原発推進あるのみとの姿勢が、今回、日本政府・東京電力の事故への対応が後手後手にまわった要因の一つです。それでも「想定外」と居直るのは、人の道を逸脱した犯罪行為にほかなりません。
福島第一原発は冷温停止に至っておらず、予断を許さない状況が続いています。冷却機能の確保とこれ以上の放射能の放出・漏洩による汚染防止対策が重要です。その際、労働者の安全に十分留意しなければならないことは言うまでもありません。住民の被曝は、事故時の過大な基準ではなく、本来の年間1ミリシーベルト以下が一日も早く遵守できるよう、様々な手立てをすみやかに行なう必要があります。巨大な放射性廃棄物と化した福島第一原発の処理処分は、数十年単位の長い闘いになるでしょう。
全国各地で脱原発を求めて原発や原子力施設の反対運動を続けてきた私たちは、福島第一原発の危機的状況の一日も早い収束を願いつつ、私たちが今一緒になってできることを追求したいと思います。
チェルノブイリ原発事故から25年の本日の共同声明を第一歩にし、しかるべき時期に、福島第一原発・第二原発の廃炉正式決定、核燃料サイクルに関する計画中止、原発新増設の中止、老朽化原発の廃止を求める全国的な大行動に取組み、着実に脱原発を実現していくプロセスを提起していきます。
これ以上の放射能汚染・地球ヒバクを許さず、生きとし生けるものすべてのために、脱原発社会実現に向け、ともに歩みだしましょう。
2011年4月26日
(第398号、2011年5月)

その際、「単に『脱原発』や『政策転換』だけを求めるのではなく」と、第399号で宮城県護憲平和センターの菅原晃悦さんは釘を刺す。

4・9反核燃の日全国集会で
福島代表団の皆さんの訴えを聞いて

宮城県護憲平和センター 菅原晃悦

「5月から線量計を付けているが、年間換算で3ミリシーベルトの被曝になる積算値。主に福島と郡山の往復でこの値。3月の放射能量が多い時期はどれだけの被曝をしたかわからない。また、何も知らずに大量に吸い込んだ人も多いはず。これからの健康被害が心配でならない」「国は『子どもたちの学校の基準を20ミリシーベルト』と定めたが、これでは軍隊が国民を守らなかった戦時中と同じだ」「県は、大学の教授を連れてきて、『健康被害はない』という説明会を各地で開催している。『健康被害がない』と安心してしまうことで、さらなる被害の拡大につながるのではないかという不安がある。また、不安に対する情報格差が生じ混乱も招いている」「放射線は目に見えないし、臭いもしない。そのため放射能に対する認識にも隔たりがある。おじいさんおばあさんの親世代と幼い子どもを持つ息子世代の違い。仕事を持つお父さんと子どもに食事を作るお母さんの夫婦間の違い。また、個人の中でも、『危ない』という思いと、もしかして『それほど危なくないかも』という思いが同居する」「避難できる方は既に遠くに避難しているが、『自分たちだけ逃げてきてしまった』という罪悪感を感じ、戻ってきている方もいる」「健康被害をどの程度受けるのかわからないという不安。この先どういう健康被害が出るんだろうという不安。被害が出ないでほしいという期待。こうした葛藤の中で今も毎日毎日を過ごしている」「早く自宅に戻れるようにしてほしい。安心した生活を返してほしい」
6月4日に青森市で開催された「4・9反核燃の日全国集会」に参加された福島代表団の皆さんの訴えです。この身につまされる報告を聞き、だからこそ「脱原発」だし、「エネルギー政策の転換」が必要なのだと感じました。
私たちは、事故が起きれば「取り返しのつかない被害」が生じるということを「脱原発」の理由の一つに掲げてきましたが、その「取り返しのつかない被害」が実際に福島第一原発を中心に生じているわけですから、単に「脱原発」や「政策転換」だけを求めるのではなく、現実に起きている「放射能被害」の事実をしっかり学び・拡げ、原爆被害者同様「被害」に対する「三つのほしょう(保障・補償・保証)」を求めていくことを、運動の柱に据えていくことが重要と考えます。
(第400号、2011年7月)

第400号では、6月11日の「脱原発100万人アクション」の報告や、「さようなら原発1000万人アクション」の呼びかけがなされ、新しい運動が起こっていることを伝えている。九州電力の株主総会会場を800人の人間の鎖で包囲した記事もある。そうしたなかから最後に、あえて小さなデモを紹介して締めくくりたい。

かくねん まいね!
250回目のデモ行進

放射能から子どもを守る母親の会 中屋敷重子

私たちは25年前に起きたチェルノブイリ原発事故をきっかけに「核燃と原発」に反対して青森県弘前市でデモを続けてきました。あくまでも個人の意思表示として、できる時に、できる人がと歩き続け、今年の6月25日に250回目のデモ行進を迎えることができました。
いつもは3人から10人という日本一小さなデモですが、この250回目のデモには、これまで物心両面にわたって私たちを支えてくださった方々が、東京、横浜、福島、函館などから参加してくださり、61人と子犬1匹というこれまでにない大きなデモになりました。
デモの後の交流会では、参加者全員が自己紹介を兼ねて1分スピーチを行ないました。交流会の最後に高澤さんのギターに合わせて、「海に魚が泳ぎ、空には鳥が飛ぶ。そんなあたりまえの地球、いつまで残るだろう……」とみんなで合唱しました。
今度の福島原発事故では、高濃度の放射能が空気中や海に放出され続け、私たちが心配していたことが現実のことになりました。やはり人間として原発とは共存できないことがハッキリしました。
(同上号)

ずっと続いた、あるいはまた、新たに動き出したばかりの、無数の「小さなデモ」が大きなうねりとなって脱原発を実現する――私たちはいま、そんな途上にいる。