-中越沖地震9年、フクシマを忘れない!- 柏崎刈羽原発ハイロ県民集会

『原子力資料情報室通信』第507号(2016/9/1)より

 

 さる7月17日、新潟県柏崎市の市民プラザで、「原発からいのちとふるさとを守る県民の会」主催の表題の集会がひらかれ、約300名が参加した。
 はじめに、矢部忠夫さん(柏崎刈羽原発反対地元三団体・共同代表)が基調報告をし、次いで、おしどりマコ&ケンさんが2時間近くの講演で会場を沸かし、福島県浪江町から移り住んだ谷田(やつだ)キヨさんが近況を語った。当日は柏崎市のドンガラ祭りでにぎわっており、閉会後のデモは市内の繁華街をさけたコースになった。

 東京電力柏崎刈羽原発は2004年から2011年までの7年間に三度、地震の恐怖にみまわれた。2004年新潟県中越地震(マグニチュードM6.8)、2007年新潟県中越沖地震(M6.8)、そして2011年の3・11に東北地方を襲った巨大地震(M9.0)だ。
 二度目の中越沖地震で世界でも初めての原発被災を経験した。全7基は止まった。火災が起きた。緊急時対策室の入り口の扉がゆがんで開かず、司令部の機能を果たせなくなった。敷地がでこぼこになり、最大60センチ隆起、最大160センチ沈降し、消防車は入れなかった。原発の中の装置や機器に3,000を超える不具合箇所が生じた。
 あたかも、福島事故を予告したかのような事故だった。それから今年で9年目になる。

基調報告から

  柏崎刈羽原発全7機のうち、2、3、4号の3機は9年間、停止したままである。この3機は県の技術委員会の検証の議論の場には、9年間、一度も持ち出されてこなかった。技術委員会の下部組織で、詳細に健全性を議論する技術小委員会の場にも、まったく登場しなかった。残りの1、5、6、7号の4機は、まがりなりにも技術小委員会、技術委員会の審議を経て再稼働していた。それらもフクシマ事故後、止まっている。だが、2013年9月、東京電力はABWR型の6、7号機を新規制基準適合性審査に申請した。原子力規制委員会はいまだに結論を出していない。

 福島第一原発の事故収束もままならず、原因すら特定できず、事故から5年4か月の現在でもなお被害者住民の保障問題すらなしえていない東京電力に、柏崎刈羽原発の運転再開をもくろむ資格はない。
 東京電力という会社には原発を運転する資質と能力があるのかと疑われる事件が次々に起きている。去年9月には、ケーブルの違法敷設問題や安全工事の設計管理マニュアルに従わなかった問題が発覚した。今年2月、フクシマ事故時のメルトダウン問題で「当時の社内マニュアルにメルトダウンの定義が記載されていたことが判明した」と発表した。じつに、5年間、隠蔽しつづけ、技術委員会の6回の審議でウソを言いつづけてきたのである。
 また、住民・県民は作成された現在の避難計画が絵に描いた餅にすぎないことを知っている。国際原子力機関の深層防護の考え方は、原発の安全確認を構築するために不可欠なものだが、新規制基準には、その第5層がとり入れられていない。放射性物質が大量に放出された場合、住民・県民が相当量の被ばくを避けられないのが現状の避難計画だ。そしてさらに、避難計画の実効性を確認(審査)する機関が存在していない。
 矢部さんは、県内の再稼働反対の運動の広がりにふれて、昨年9月には「柏崎刈羽原発を再稼働させない新潟県民交流会」を柏崎市で開催したと報告。フクシマの人々を思い、フクシマを忘れず、決して繰り返してはならない! 柏崎刈羽原発をハイロに! 全県で再稼働阻止をたたかうと宣言した。秋に予定されている新潟県知事選に泉田知事の再選をかちとらなければならないと訴えた。柏崎刈羽原発の再稼働議論よりも、県技術委員会などを通してフクシマ事故の検証が先だ、という泉田知事の姿勢を評価したものである。

マコさん、ケンさんに拍手、たびたび 

 講師の二人は夫婦漫才コンビで、よしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属している。新潟県での講演は初めて、という。「私たちを知っている人は手を挙げて」と会場の人たちに壇上からマコさんがきくと、知らない人たちがほとんどだった。
 マコさんは福島原発事故以降、政府や東電の記者会見にまめに出席し、事あるごとに、厳しい質問を投げかけ、向こう側からは嫌われぬいている。二人は仕事をすっかり干されてしまった。長いものには巻かれろと言われたりするという。しかし、まったくめげずに、からっとしているのに感心した。現地取材を繰り返し、インターネットで発信している。月刊誌『DAYS JAPAN』の編集委員でもある。
 マコさんは鳥取大学医学部の生命科学科を3年で中退して漫才師の世界に入ったという異色の人だ。CTによる医療被ばくはよく知っているので、あの年の飯舘村での被ばくがどれほどのものか判断できると自己紹介した。事故直後、「ただちに健康に影響ありません」とテレビが叫び続けている、その時に、業界の人々はどんどん東京から逃げ出していた。その映像をテレビ局は撮影していたのに、どのテレビ局でも、撮った映像を流さなかった、とマコさん。
 パソコンを駆使し、鮮明なパワーポイントを大画面に映し出し、ふくいちの事故現場、昼夜関係なく原発から放射性物質の混じった水蒸気が立ち上ってゆくさま、東京電力の記者会見のようす、などを紹介した。パソコンの係はケンさんで、二人は絶妙な掛け合いで画面を写し出してゆく。
 メルトダウンを追及しているのは新潟県の技術委員会だけだ、原子力規制委員会も、規制庁も一切しない、と語ったとき、会場から盛大な拍手が起きた。メルトダウン問題についての第三者委員会の弁護士たちが決して第三者などではないと、国会事故調のとき、小渕議員のとき、舛添都知事のときのことを挙げて批判した。東電の60人にヒアリングしたさいに上司を同席させていたという異常さ、事故時に官邸に詰めていて「メルトダウンという言葉を使うな」と指示した人物と疑われている武黒フェローにヒアリングしたかと記者会見で質問したところ、中身は言えませんと言われたと自身の経験を打ち明けた。
 汚染水で東電の係が「希釈」と言わずに、「濃いものと薄いものとを一つのタンクに入れて」出しますという言い方に呆れ、3年前の7月、参院選直後に高濃度の放射能汚染水を海に放出していたと白状したことなどを次々に語って、会場に拍手を巻き起こした。
 二人は毎年ドイツに1週間ほど招かれ、1回2時間の講演を1日3回こなしている。地域の小学校でも大学でも教室は満員で、質問がひっきりなし。福島事故に非常に詳しいので、どうしてかと尋ねると、国会事故調の英文版を読んでいる言われたそうだ。
原子力の本質を理解するには教育こそだと、マコさんは言いたかったのではないか。

 マコさんの後に登壇した谷田キヨさんは、「たらい回しされて柏崎に来たが、海と原発とがあって、浪江と同じだ」「浪江に一時帰宅して1時間ほど滞在したとき、あと3年で帰れると言われた。その後、町長が来て「あと3年」と言った」。こちらに来てから連れ合いをガンで亡くした。「浪江にいれば、かかりつけの医者が居たのに」と悔やんだ。「もうここで骨を埋める、柏崎の人たちになじんできて、お店を開いている」と語った。
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 毎年の県民集会の主催者側の一人で、司会もしていた金子貞男さん(長岡市)にこの日、会えなかった。春いらいの病から回復できていないかなと思ったが、このあと、8月9日に60歳で世を去った。残念で悲しい。心から、ご冥福を祈ります。  

(山口幸夫)