労災保険と民事損害賠償について ――長尾光明さんの労災(多発性骨髄腫)認定と今後の裁判提訴に向けて――

『原子力資料情報室通信』363号(2004年9月1日発行)より

労災保険と民事損害賠償について
――長尾光明さんの労災(多発性骨髄腫)認定と今後の裁判提訴に向けて――

(社)神奈川労災職業病センター川本浩之

 今年の1月に、福島第一原発などで働いた長尾光明さんの「多発性骨髄腫」について、富岡労働基準監督署は原子力発電所で働いた被ばくが原因の職業病であるとして、労災認定した(本誌357号)。まもなく、長尾さんは、さらに会社に対する民事損害賠償請求裁判を提訴する予定である。
 ところで、労災補償制度、労災保険そのものについてはもちろん、それと民事損害賠償との関係など、あまり詳しいことは知られていないことが多い。実際に、長尾さんは「多発性骨髄腫」と診断されてまもなく、ご本人も原発の被ばく労働が原因だと考えて、労働基準監督署に相談にまで行ったのに、請求に至らなかった。地域のいわゆる民主団体にも相談したが、そこでも労災手続きの援助はしてもらえなかった。
 たしかに長尾さんの「多発性骨髄腫」は、全国で初めての労災認定ケースではあるが、そうでなくても、労災保険制度すら、あまりにも労働者に正確に知られていない。労災にしたくない会社にごまかされたり、一般診療活動で多忙を極める医療機関ではどうにもならない場合に、被災労働者は泣き寝入りを余儀なくされる。長尾さんの労災認定の実務的支援を担った関西労働者安全センターや当センターは、そんな労働者や家族のための「駆け込み寺」として発足後、30年近く経過しているがその役割を終えることができないでいる。
 まず、労災保険でどのような補償がされて、さらにどのように損害賠償請求をするのか、それらの関係などについて、長尾さんの例に則して、なるべく法律用語を避けてわかりやすく説明するのが、本稿の目的である。

1. 労災保険制度について

 労働基準法では、仕事でケガをしたり、病気になった場合には、使用者は労働者に補償しなければならないと決められている。主な内容としては、医療費全額や休業補償として賃金の60%である。後遺症が残ればそれに応じて、死亡災害になると、もっと大きな補償を強いられることになる。労働基準法は最低限の労働条件を定めたものであり、これを下回る労働条件は仮に労使が合意したとしても無効になる。
 ところが、中小零細企業などでは、そうした補償をしたくてもできない、要するにお金がない場合もあり、せっかくの法律も画に描いた餅になってしまう。そこで、1947年に、労働基準法とまったく同時に、労働者災害補償保険法というのができて、どんな会社で働いている労働者でも、きちんと補償されるように、国が管掌する保険が作られた。それが労災保険である。適用の範囲がだんだん広くなり、やがて重い後遺症に対する障害補償や遺族補償に年金が導入され、通勤災害についても給付されるようになるなど、制度が拡充されて現在に至る。
 「うちの会社は労災保険に入っていない」、「パートなので労災保険は適用されない」、「会社が認めないと労災にならない」、「退職してしまったから労災保険は使えない」、以上はすべて誤りである。労災保険は事業を開始したと同時に成立したとみなされることになっているので、会社が保険料を支払っていなくても、労働者が補償を受けられないことはない。パートだろうがアルバイトだろうが、退職していようが関係なく、仕事のケガや病気なら適用される。本人が所定の用紙に名前を書いて、会社と医療機関の証明をもらうようになっているが、会社が証明してくれなくても、労働基準監督署は受理することになっている。よくできた制度なのだ。もちろん長尾さんのときのように、労働基準監督署や会社が不適切な対応をすることもしばしばあるのだが。
 ということで、長尾さんは、現在自己負担なしで治療を受けており、休業補償60%と特別支給金20%(あわせると80%になる)が支給されている。受給期間に制限は設けられていない。治るまでそれらの補償を受けられるが、それ以上治療を続けても効果がなくなったときは、上記の補償は打ち切りとなり、後遺症が残れば、それ相応の補償が受けられる。もちろん不幸にして亡くなられた場合には、遺族補償年金、葬祭料がご遺族に支給される。残念ながら「多発性骨髄腫」が治ることはないようなので、おそらく継続してずっと補償されるだろう。

2. 民事損害賠償について

 さて、労災保険が適用されても、それがすべての損害を補償しているわけではない。例えば、休業補償は60%しか支給されないのだから、あとの40%は補償されていない。さらに、いわゆる慰謝料は労災保険ではゼロである。そこで、労災職業病を発生させた会社に対して、民事損害賠償請求をすることができる。
 では会社に上記の差額や慰謝料を求めると、払ってくれるかというと、そう簡単ではない。労災保険では、仕事とケガや病気の因果関係さえはっきりすれば、支給されるので、会社に過失があろうが、あるいは被災労働者本人がミスを犯していようが、関係なく同額支給される。十分ではないこともあるとはいえ、細かいことは労働基準監督署がいろいろと調査してくれる。
 一方、民事損害賠償請求が認められるのは、会社に労災職業病発生に関して、法律違反や、やるべき予防対策を講じていなかったといった過失や責任がある場合に限られる。交通事故であれば、まずほとんどすべてのものが道路交通法違反だが、労働災害の場合は、業務上過失致死傷罪や労働安全衛生法違反が問われることは、実はあまり多くない。あくまでも請求する側が、自力で過失や責任を具体的に明らかにしなければならないことがほとんどである。さらに会社に責任があったとしても、労働者側にも過失があれば、その分割り引かれる。自動車同士の交通事故で、よく相手が8割悪いとか、7割だとか、相殺されるのと同じである。こうして割り引かれた上で、労災保険からもらった分を引かれるので、労働者の過失が大きくなると、賠償金はゼロになることすらある。
 長尾さんの場合で言えば、確かに「多発性骨髄腫」と被ばく労働の間の因果関係は労働基準監督署が認めたが、会社の責任をも認めたわけではない。直接雇用主である石川島プラント建設や元請けの東芝は、法を順守して、規制値以下の被ばく労働をさせたにすぎないのであって、責任はないのだと、きっと主張するだろう。さらに、厚生労働省が、このたび専門家に検討してもらって初めて因果関係を認めた病気について、被ばく労働をさせた当時、会社が認識して対策を講じるなんて、到底不可能だとも主張するだろう。あるいは、2社が責任を押しつけ合うようなこともあり得ないことではない。そして、因果関係そのものも、国が勝手に認めただけであり、会社としては認められないということも、職業病全般で、会社がしばしば主張することである。

3. 原子力損害賠償制度について

 以上のことだけ読まれると、長尾さんが、すべての補償をきちんと得ることは、なかなかむつかしいのではないかと思われるかもしれない。しかし、原子炉の運転や核燃料物質の加工や運搬などで生じた損害については、一般の民事損害賠償と異なり、1961年にできた「原子力損害の賠償に関する法律」(以下「原賠法」とする)などで、補償されることになっている。
 原賠法の大きな特長は、賠償責任を原子力事業者に集中させて、過失があろうがなかろうが関係なく、被害者に賠償することを義務付けていることである。つまり、2で述べてきたような、過失の有無や責任がどこにあるかといった議論はまったく必要なくなる。また、賠償責任がはっきりしても、会社に支払い能力がない、あるいはつぶれてしまったということが、実際によくあるのだが、原子力事業者は、「原子力損害賠償保険契約」を結ぶことが義務付けられる。さらに、それでも賠償できないような場合には、国が援助しましょうというところまで決まっている。
 原子力損害の範囲については、さまざまな議論や改正がなされてきたが、原子力発電所で発生した労働災害職業病は、言うまでもなく原子力損害である。因果関係が必ずしもはっきりしないもの、例えばいわゆる風評被害などは、どこまで損害と言えるのかは難しいかもしれないが、長尾さんは厚生労働省が因果関係を認めたのであり、労災保険で補償されない部分については、原賠法に基づいて電力会社に損害賠償請求できる。その場合に過失や責任を明らかにする必要もなく、賠償されるはずである。もちろん東京電力も、国が認めた因果関係そのものを否定する可能性はある。
 では、実際に被ばく労働をさせて職業病を起こした石川島プラント建設や東芝には、労働者に賠償する責任はまったくないのか、何をやらせても電力会社が金さえ払えばそれでいいのか。原賠法は、被害者を保護するよくできた法律のようであるが、実は原子力産業を保護する法律でもあることは、第一条の目的からも明らかである。そこには、「被害者の保護を図り、及び原子力事業の健全な発展に資することを目的とする」と、はっきり書いてある。ちなみに労災保険法第1条では、「労働者の福祉の増進に寄与することを目的とする」とされている。

4. 労災民事損害賠償請求の意義

 長尾さんは、労災認定の前から、1人でも入れる労働組合「よこはまシティユニオン」に加入して、直接雇用主であった石川島プラント建設、元請けの東芝に対して、情報の開示などを求めて、団体交渉を要求してきた。
 認定後は、2社に対して損害賠償請求も行なったが、一貫して石川島プラント建設は、退職者であることを理由に、東芝は雇用主でないことを理由に交渉を拒否している。雇用主として、使用者として、職業病になった労働者に対して、聞く耳をすら持たないという2社の態度は絶対に許せない。そこで、東京電力に対して原賠法に基づいて賠償するべきだと要求したが、やはり門前払いであった。申し入れすら受け付けないという回答である。
 誠意を持って話し合う気持ちが事業主側にない以上、法廷で争うしかない。まもなく、長尾さんを原告とした損害賠償裁判が提訴される。労災認定に向けては、多くの皆さんのご支援をいただいた。裁判闘争においても、多くの皆さんの注目とご支援をお願いしたい。
 長尾さんのケースのみならず、労災の民事損害賠償裁判はもちろん被災労働者やご遺族の補償獲得が目的であるが、それだけではない。何よりも事業主の態度を改めさせる闘いでもある。
 企業が自主的に労災職業病を防止するための活動を行なうことは、原理的にあり得ない。もちろん企業には、イメージを重んじたり、生産性をあげるためにも安全で働きやすい職場を作るという志向性がないわけではない。しかしながら、ここ数年来頻発している大企業での事故を見ていると、明らかにコストダウン至上主義が、そうした志向性そのものを失わせている。前提になるゆとりがないのだと思う。原子力をめぐっても、コストダウンのために基準までダウンさせようとしている。
 ゼニカネで動く社会を拒むことは、おそらく本誌の読者の共通認識であると思うが、残念ながら会社はゼニカネでしか動かない。きちんとした補償を獲得することが、労働者の健康や生命を犠牲にした原子力の本質を明らかにすることであり、それが被ばく労働を少しでも減らす、そしてなくすことにつながると考える次第である。